天の川を、俺達は見る事が出来ない
かずなし のなめ@「AI転生」2巻発売中
天の川を、俺達は見ることはできない。
本日天気は晴天なり。されど波高し。
いつもの事だった。
この光景、同じ景色を飽くまで見続けてきた。
漣が砂浜を呑み込み、地と水の境界線が曖昧になりかける連続。
雲一つ被さらない、一色で染められた天空。
これだけ抱きしめられても自然と受け入れてしまう、漣の音。
体の一部のように何も感じない、潮の香。
制服の白シャツを靡かせる涼風のお陰で和らいでいる、初夏の熱。
もう何回目だろう。
まるで生まれた時からずっと、この場所に縛られ続けているみたいじゃないか。
最近はいつの時間、どこまで潮が満ちるか、どんな漣の線が描かれるかまで把握できてしまった。
あ、予想通り。
もはやこの七里ヶ浜海岸は、俺にとっては庭そのものだ。
……ただし、2007年7月7日の、という条件が付くが。
バタフライエフェクトという言葉がある。それでも。
例えば俺がここで入水自殺を遂げたところで、何も変わりはしない。
この17時丁度、心地よくも古めかしさが残るアナログ音で構成された蛍の光も変わることはない。
そして。
彼女がこの時間に現れることも、未来予知を持っていない俺にだって分かる。
だって、ずっと繰り返してきたのだから。
「……それ以上俺に近づかない方がいいぜ」
「えっ?」
訪れた彼女に対して、俺は寝ころんだ姿勢を崩さないままそう返した。
「隠しているつもりでも、この姿勢だと見えちゃうから。ブルマの下の水色も」
「ちょ、ちょっと!!」
それを聞いて、彼女はスカートの端を太もも部分で掴んだまま近づいてこなかった。
単身矮躯な体。
こんな小さな体の高校生がいるんだ。俺も初めはそう思った。
「
「付き合ったからには気を付けろ。男子というのはムッツリスケベかオープンスケベかEDの暴力野郎しかいない。詰まる所危険極まりない野生の狼だらけだ。いつでも羊の気持ちよさそうな体をガン見している」
「うぅ……っ、そんな……、なんてことです……。言っておきますけど私、まだ手を繋ぐ程君に心を許してはいないのですよ!」
「泣くなよ。ほらハンカチ」
「ありがとうございます……」
しかも絵に描いたように、出会って三ヶ月。付き合って一週間だというのに、ですます調が抜けない。
嘘みたいなキャラだが、本当に素らしい。お嬢様の苦労だとか何だとか。
「というか何で私のパンツの色、分かったんです?」
「学校で見た」
「ふむ? それはおかしいのですよ。だって文月君と私は、別の学校じゃないですか」
「いやいや、おかしいなんて事はない。俺くらいになればお前の為、多少の距離なんて無視してお前の学校に馳せ参じるぜ。今日美術部で絵具を零した事とかも、こっそり見ていたから知っている」
「な、なんと、なんてことです……文月君はまさか、しゅ、スパイ……」
「信じるのか……」
もう少し疑うってことを覚えてくれ。
今話した通り、この小さな彼女である
俺が七里ヶ浜高校。七夏が鵠沼高校。
七里ヶ浜海岸の最寄である七里ヶ浜駅。どちらもその沿線上から通える学校だ。
俺達は4月、たまたまこの七里ヶ浜に来た時に出逢った。
たまたま声をかけた理由は、彼女が描いていたデッサンに俺が書かれていたから。
触るだけで直ぐに割れそうな雰囲気を醸し出していたのに、何故か声をかけてしまった。
『何を書いているんだ?』
『これはですね、“ポセイドン”です』
『こんな平和な太平洋のどこに
『いますよ。だって人間がこんなに小さく見えるくらいに、海は大きいじゃないですか。私にもこんな海って神を描ける自信がなくて、君を比較対象に選んでしまいました』
『……』
『すみません。知らない人に、こんな事を言われたら怒りますよね』
『怒るかよ。一人の芸術家に、俺を現してもらえる。それは多分、うれしい事だぞ』
そんなのは建前だったのかもしれない。
一目ぼれ、だったのかもしれない。
そして話しているうちに、何回も惚れ惚れしていた。
気付けば七夏は一人の芸術家じゃなくて、一人の少女として何度もこの海岸に来てくれた。
俺の隣で、今日は七夕の流れ星を見るために。
逢魔が時になって、コバルトブルーから深紅へと変貌していく空を眺めながら、七夏は俺に尋ねた。
「それでどうして今日の私のパンツの色が分かったんです?」
「……今から話す事は聞き流せ」
「どういう事です?」
「本当はあそこで君は、俺の真上に来てスカートの中を晒していた……丁度風が吹いてな」
「何を言っているんです?」
「俺はそんな世界線から来た、未来人だ」
流石に七夏の顔が訝し気になった。熱まで測られた。
いや、さっきのスパイの時に同じ反応しろよ。
「だから聞き流せって言った」
「まあ、君のいつもの軽い冗談だという事は分かっています。でもね、文月」
「なんだよ」
「流石に君が本当のことを言っているのか、嘘の事を言っているのかくらいわかりますよ」
「……そりゃたいしたもんだな」
「好きになった人くらい、良く観察しています」
上目遣いで、決して逸らす気のないくりっとした瞳がこっちを向いている。
俺はその眼が可愛く感じていたが、同時にくすぐったくも感じていた。
「目をそらさないで下さい」
「……そんな夢を見たんだ」
「夢ですか。まあそんな所だと思いましたけど。でも図太くデリカシーのない君がそんな夢を見るなんて、意外と繊細な所があるんですね」
夕焼け空に目を向けた七夏は、今度はスカートの中が見えないように白く細い脚をしたからスカートで包み込み、俺を安心させるような優しい口調で聞いてきた。
「それでは未来人さん未来人さん。あなたはどんな未来から来たんですか?」
「……何となく高校を卒業して、何となく大学を卒業して、何となく入った会社をリストラされて、何となく婚約した人から振られた未来から来たんだよ」
「うわっ、とんでもなく終わっている未来じゃないですか」
「生憎、全て真実なんだ」
「……ちなみに婚約者というのは私ですか?」
「いや、君とは全く真逆の、背が大きくて胸も大きい美人だよ」
「……成程。その未来では文月と私は別れたのですね……私がまな板だから喧嘩別れでもしたんですかね」
「……でも七夏と俺は別れ話もしていないし、別れていない」
「なんと、まさかの愛人コースですかっ!? まさか未来の私はそんな安い女になっているんですか!?」
俺は、思わず言葉に詰まってしまった。
真剣に話を聞いてくれる七夏の全ての愛おしさが、何度も沸騰したから。
滲んだ。
七夏のまっすぐな表情に、細い体にモザイクがかかった。
「文月……? わわっ」
体が勝手に動いていた。
そんな風に言い訳する気はないけれど、まだ手を繋ぐ事すら躊躇する七夏の体を全力で抱きしめていた。
嫌われても、もういい。
でも、この未来の話を続けるには、七夏がどこにも行かない様に抱きしめ続けるしかないんだ。
回した腕から女子特有の、感覚。
顔の横ではためく髪から、シャンプーの香り。
硝子細工の様に脆い事を示すように、相変わらず七夏の細い体は抱きしめると骨の間隔までわかってしまう。
薄い胸同士、心臓の鼓動がつながっている気になる。
「……続けてください」
「えっ」
物凄い赤面していたし、抵抗されるかと思ったが。
代わりに、震える俺の後頭部を優しくなでてくれた。
「……君は、高校を卒業することはなかった」
俺はキスするくらい近くに、彼女の顔と近づいた。
だってもう。
時間がないから。
「君は、今から一年後、七夕の直前に病気で亡くなるから――」
そうつぶやいた時には、俺は藤沢駅の改札の前にいた。
2017年7月7日の、江ノ島電鉄藤沢駅の一番左側の改札口に。
■ ■
江ノ島電鉄藤沢駅の一番左側の改札口。
電子カードのタッチ部分もなく、切符を通す口しかない改札。
実はこの改札にはある都市伝説がある。
過去に未練がある人間が、19時7分7秒にこの改札を潜ると“もう一つの江ノ島電鉄”に乗れるという物だ。
別名“振り返り電車”と呼ばれるその車両に乗ると、未練が残っている時間に帰れる。
ただし江ノ島電鉄沿線上の駅のどこかである事と、その時間は7時7分7秒から同日19時7分7秒の間である事と、いずれかの年の7月7日に限定される事くらいだ。
19時7分7秒が来れば、こうやって元の時間に戻される。
そしてその世界で何をやっても、元の時間には影響はない。
……俺はこうやって9年間、殆どの日を2007年7月7日の七里ヶ浜駅行きの振り返り電車に乗っている。
「七夏……」
ふとガラスに、皺くちゃのスーツ姿の、だらしない無精髭だらけの自分が写る。
あの頃は25歳の自分が、こんな不毛な未来を歩んでいるとは思わなかっただろう。
そもそも、あの頃の俺も七夏も知らなかった。
あの生まれてきてよかったと思わせてくれる永遠は、たったの一年で永遠に止まってしまった。
「七夏……」
俺はカバンの中から携帯電話を取り出した。
周りがスマートフォンの液晶でアプリゲームをやっているときに、俺は時代遅れの携帯電話を開く。
しかしそれは、九年前に七夏の母親から託された、七夏の携帯電話だ。
俺が開いたのは、2008年7月5日の録音内容だ。
まるで電話でも聞くかのように、耳にそっとあてる。
『文月へ……。多分……これを聞いている頃、私は生きていないと思います……。お母さんに頼んで、この携帯が君の下へ届くよう、取り計らいます……。……君の絵……完成させたかった……。もう一回……七夕の夜空……見にいきたかったですね……』
掠れ、枯れた声はすっかり変わり果てた七夏のものだった。
この次の日、息を引き取ったのも納得の、弱りきった声だった。
『……最後に』
もう俺の声が届くことはない彼女の一方通行の言霊は、一つの願いで終わっている。
『文月は優しいから……きっとなんだかんだ言って、私の事引きずると思います……。自惚れも大概にと思うかもしれませんが……どうか私の事は忘れて……その優しさを……誰かの為に使って、幸せになってください……』
「……それは、出来なかったよ」
俺は、無音になった携帯を握りしめたまま脱力した。
人目もはばからず、暫くその場でしゃがみ込み、蹲った。
自分の膝に預けた頭で、忘れるなんて無茶なくらいに七夏の事を思い出していた。
眼を閉じて、視界のコンセントを全部消したら、勝手に浮かび上がるんだよ。
七夏の色んな表情も。
あれからの溢れる程の思い出も。
……振り返り電車では行けない、あの日の星空の事も。
……19時7分で止まるあの世界では、織姫と彦星が交わる漆黒の川を仰ぐことはできないのだ。
「今日……七夕か」
今度は『振り返り電車』ではない、本当の江ノ島電鉄に乗った。
軋んで近いうちに壊れてしまうのではないかと不安になる摩擦音と共に、俺の乗る車両も動き始めた。
揺れる車内の事はよく覚えていない。
最近、仕事をクビになったせいだろうか。婚約者に振られたせいだろうか。
……否、その前からずっと覚えていない。
消化試合に注目しないのと同じで、七夏がいなくなった未来を俺は見る事が出来なくなった。
高校の卒業式も、新しい大学のキャンバスも、六畳一間の自室も、無駄に綺麗なオフィスも、婚約者と交わしたグラスも。
今思えば、風化した写真の様に見た瞬間に褪せていた。
駄作の絵画のように、心の表面をなぞる事しかなくなったのだ。
高校の頃お世話になったこの江ノ島電鉄も、硬い椅子の座り心地にさえも、何も思う事が出来ない。
それでも一つだけ俺の眼を捉えたものがあった。
鵠沼駅。
住宅街のど真ん中に位置する無人駅。
ここの改札を潜れば、正面に鵠沼高校がある。
七夏が最後に通学していた、学校だ。
鵠沼駅まで来ると、部活帰りだろうか。十年前と変わらない制服を着た女子達が乗ってきた。
「……」
気付けば、女子達は俺へ訝し気な顔を見せながらどこかへ去っていった。
ああ、申し訳ない。変態とでも思われたのか。
また、制服以外のパーツを七夏と重ねて見てしまった。
一瞬で七夏が還ってきたのか、と浅ましく幻の奇跡に縋ってしまった。
去り行く少女達に、更に申し訳なくとも思う。
あの病気にかかったのが、七夏でなく君達なら良かったのに。
どうして、七夏だったんだろうか。
君達と同じく、七夏は何の罪も侵していない、洗濯物の様に真っ白な女の子だった。笑顔も泣き顔も良く似合う、純粋無垢の芸術少女だった。
砂浜からの景色が、ループする渚の唄声が、快晴の空が、茜空で黒く染まる江ノ島が、七夕の星空が、全ての自然を愛していた少女だったんだ。
こうして死んだことで、一人の人生を台無しにできてしまうくらいに。
一人の未来を、消化試合に出来てしまうくらいに。
一人の現実を、隅っこで体育座りさせてしまうくらいに。
綺麗で、可愛くて、愛していたよ。
忘れられたら、楽なのに。
……じゃあ、今ここで記憶を消すボタンがあったとして、俺は押すだろうか?
……馬鹿か俺は。
壊すに決まっているだろう。
何度この人生を繰り返したところで、きっと振り返り電車に乗って、現実逃避を繰り返すだろう。
気持ちを押し殺すことなく、ずっと子供のまま、閉じた箱庭で七夏と会いに行くだろう。
自分から望んで、過去に囚われる事だろう。
いつまでも、2007年7月7日の青空の下で。
永遠に訪れない七夕の夕暮れで。
新鮮な七夏に、会いに。
すっかり陽が沈んだ七里ヶ浜海岸は、10年前と何も変わりはしない。
ただ違うのは、空が黒一色である事くらいだ。
煌煌と存在感を示す満月。
脇役の様に小さく転々としている、一番星、二番星。
あるかどうか分からないくらいに、気づけばそこにある三番星。
黒と、ちょっとの銀色しか使われていない、なんとも寂しい天の川だった。
なあ七夏。
あの頃俺達はこの空に、どんな未来を描いていたんだろうな。
少なくともその絵の中で、俺ら二人は隣同士だったのかな。
今天の川から君は見ているのかな。
今見えている俺は、どんな風に映っているのかな。
情けないと一喝するのかな。
それともさっき振り返り電車の世界で会った君の様に、優しく抱きしめてくれるのかな。
笑ってくれるかな。
泣いてくれるかな。
怒ってくれるかな。
君は、まだ俺を見てくれているのかな。
まだ天の川の中に、君の魂はあるのかな。
どこかの知らない誰かの中に転生していないかな。
転生しているとして、俺以外の誰かを好きになっているのかな。
転生していないとして、そもそも遠い遠い空から俺の事なんて見ているのかな。
見ているとして、私のことを忘れて幸せに生きてくださいなんて残酷なことをもう一度言ってくれるのかな。
でも君のことを忘れることもできず、結局死んだも同然の生き方をしているって聞いたらなんて言うかな。
友達作りも苦手で、何もかもが不器用だった俺には、君しかいなかったって知ってるかな。
君が生きていたとして、俺は君を幸せにできたのかな。
こんな未来しか歩めなかった俺に、果たして君は生きていたとして、ずっと隣にいてくれたかな。
もっともっと上手に色んな未来を描ける人を好きになって、離れていくのかな。
結局七里ヶ浜の漣の様に、向こうに見える江ノ島の様に一人寂しく生きていく羽目になったのかな。
俺がまだ君を好きでい続けて、君の過去と会い続けていると知って。
君は俺を、叱ってくれるかな。
それでも俺は、君にもう一度会いたい。
一緒に、この星空を見て、この星空になりたい。
流れ星になって、誰かの願いが叶う姿を一緒に見守り続けるんだ。
月になって、潮の満ち引きを操って、溺れる人が現れない様に一緒に気を付け続けるんだ。
この天の川になって、君と一つに溶け合うんだ。
少しだけ待っててくれ。
今から君の下へ、沈んでいくから。
この海の下に君がいるのか、果たしてやっぱり空に君がいるのか、今から確かめるから。
必ず七夏の下に、たどり着いて見せるから。
夜闇の中だろうと、永遠の中だろうと、もう照らされることのない未来だろうと――。
そして、僕はそっと海へ歩き出した。
「……文月?」
――俺は声に反応し、その方向を向いた。
小学生のようで、しかし鮮明な声。
「七夏……」
薄暗い街灯に照らされていたのは、鵠沼高校の制服だった。
暑さ故の幻覚か。俺の精神状態がまたフィルターをかけたのか。
夏とは思えぬ白く細い手足に、幼顔。
飾らぬ黒髪の短髪は、しかし柔らかく風で揺れている。
下から救い上げるような風が、彼女のスカートをはためかせた。
黒いブルマの下、水色のレース。
2007年7月7日と同じ下着の色。
しかし彼女は、それすら構わぬと言わんばかりに俺へ訝し気な表情を見せ続けた。
「文月、ですよね……スーツに着替えたんですか?」
「……」
「というか、なんか老けました……? 髭が見えるんですが……」
「七夏、なのか……」
「何を死んだ人が蘇ったみたいに……。だってついさっきまで一緒にいたでしょう。急にいなくなるし……」
「……なあ、七夏」
理解が追いつかない。
追いつかないまま、俺は七夏に尋ねた。
「今、西暦何年だ」
「おぉ? ……2007年ですけど。2007年7月7日ですけど」
「……」
「今日は本当におかしいですね。突然未来の話をして泣き出すかと思えば、今度はスーツを着だして今年何年とか聞き出すなんて……」
間違いなかった。
今、俺の目の前できょとんとした顔を見せているのは。
この七里ヶ浜の砂を一緒に踏んでいるのは。
10年前の7月7日、しかも振り返り電車で干渉した時間からやってきた、七夏だった。
天の川を、俺達は見る事が出来ない かずなし のなめ@「AI転生」2巻発売中 @nonumbernoname0
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