非常階段

コオロギ

非常階段

 『健康のために階段を使いましょう』と書かれた紙は、各フロアの非常階段へ通じる扉すべてに貼られていて、私を含め会社の連中はみんな、なんとなくそれに従っていた。だからエレベーターを使うのはほとんどが外部から来る人間で、他は重い荷物を運ぶときのような例外的な場合だけだった。

 本当のところ、私は階段が苦手だ。重い扉の開閉するがちゃんと響く音は心臓に悪いし、どうにも空気の薄い感じがして息苦しい。変わらない景色の中を廻り続けていると、いったい自分が何階にいるのか分からなくなってしまうのも嫌だった。窓のない螺旋の空間をいくら白々と照らしてみたところで、視界の四隅には漠然とした暗さが居座り、その隅に虫の蹲っているのを見つけるたびに、私は内心うろたえていた。

 それでも、人が階下から上ってくるのを見れば気持ちも落ち着くし、いい大人が「怖いから」なんて理由でエレベーターを使うのも恥ずかしく、何でもない風を装って階段を使っていたのだが。

 今、私は階段の踊り場で途方に暮れている。いつも通り七時過ぎに出勤し、一階フロアの通用扉を押して中に入り、階段を三階までぐるりと上り、目の前の扉に手をかけて引こうとして、それがびくともしない。何度かがちゃがちゃと引いたり押したりを繰り返し、けれどどうやっても開かない。仕方がないので、階段を一階分下りて、二階フロアの扉を引くも、そこも開かない。

 血の気の引くような嫌な予感が頭から足元へと落ちていく。さらに一階分下りた。当然のように入ってきたはずの扉も開かなくなっていた。

 私はもう一度、二階、三階と階段を廻った。やけに息が切れた。どの扉も開かなかった。

 非常階段には鍵などついていないのに。

 鞄をいくら探しても入れたはずの携帯端末は出てこなかった。誰かが出勤してくればすぐに気づいてもらえるはずなのに、私の心はまるで落ち着かない。

 腕時計を確認すると、七時過ぎで動きを止めていた。

 電池が切れたのだろうか。でも。

 これには秒針がないから。

 止まったのが本当のところどちらなのかは不明だった。


 私は踊り場の隅で茫然と蹲っている。何の音もしない。どのくらい時間が経っているのか、もしくは経っていないのか知れない。真っ白な蛍光灯の灯りがちらちらと闇をばらまいている。天井をやけに高く感じるというのに、この圧迫感はいったいなんなのだろう。

 もう誰も来ないのかもしれない。このわけのわからない空間、時間に閉じ込められて、一生、永遠にこのままなのかもしれない。

 でも。

 それならそれでいいというような気持ちに、私はなっている。

 誰も来なければいい。ずっとこのままでいい。もう何も起こらなくていい。

 ……カツン。

 微かな音が扉の向こうから聞こえた。私は身を震わせる。

 おしまいだ。

 なぜそんな風に思ったのだろう。私は弱々しく目線を扉に向ける。

 足音はだんだんとこちらに近づき、この扉一枚隔てた向こう側で止まった。

 がちゃん、とドアノブが回された。体が縮み上がる。扉が開いていく。隙間から、ゆっくりと光が差し込んで、その面積を拡げていった。

 向こう側の人物と、目が合った。

 

「うわ、虫が死んでる」

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