第二章第六節

 ヨーゼフ・メンゲレはナチス親衛隊、SchutzStaffelシュッツシュタッフェル将校であった。

 第二次世界大戦中の1943年にアウシュヴィッツ強制収容所に配属され、それから1945年の1月に至るまで、人体実験を繰り返したとされる。彼が助手を務めたフェアシュアー博士がヒトラーの熱烈な信望者であり、そこからヒトラーとの出会いがあったと言われている。

 彼の行った実験の中にも、海水のみを患者に与え続ける「海水実験」や、マラリア治療を目的として蚊の粘液抽出物を健康な収容者に注射して意図的に感染させる「感染実験」があった。

 しかし彼が最も熱心に行っていたのは、双子の子供に対する人体実験だった。

 これは人体を意図的に操作するための実験であり、多くの場合が双子の片方にのみ過酷な実験を行い、もう一方の双子にどのように影響を及ぼすかということを調べていた。


「彼は1979年にサンパウロ沖の海岸で心臓発作のために死亡したとされているが……今回の症例は、明らかに彼の手による人体実験を模倣しすぎている」

「じゃあ、メンゲレを<始祖Origins>とする<不誠実な隣人Neighbors>ということか」

 仮眠を取ったのち、榊は再び玖城から呼び出され、詳細な報告を受けていた。今回は二人のみで、古要は参加していないようだ。

 会議室のテーブルの上には、住民の顔写真と症例を記した報告書が並べられていた。

 中でも酷い症例だったのは一人の女児だった。破傷風に口腔崩壊、敗血症までを引き起こし、<歴史補填局S.H.M.N.>の附属病院に収容、治療を受けていたものの昨夜遅くに命を落としたということだった。この女児は双子ではなかったものの妹がいた。同じ環境で生活していたにもかかわらず、妹には全くと言ってよいほどに健康被害は出ていなかった。

 マラリア感染、脱水症状に陥った住民たち。

 本来ならばもっとも心休まるはずの自宅において、ある日突然身に降りかかる災厄。そして不可思議の力によるそれは、一人の力では到底抗うことのできない。

「マンションの管理人…でしょうか」

「うん、私もその線を疑っているんだ」

 榊の言葉に頷く玖城。

 前回の案件では<不誠実な隣人Neighbors>の概念のみが出現していたのに対し、今回はどうやら実体があるようだ。それならば、玖城の<絆侶Comrade>を使うことができる。

 だが、榊の胸中は穏やかではなかった。

 理由は一つ。昨夜の玖城の体調不良の原因だ。

 あのマンションの中でのみ起きた玖城の体調悪化。それもまたヨーゼフ・メンゲレの異能によるものか。そうだとしたら、何故自分は平気だったのか。

「今回は管理人に話を聞く必要があるからね。もう少ししたら出るよ」

 そう言って玖城は立ち上がった。

 結局、榊は疑問を解消することができなかった。


 

October 15 Tuesday, 2019 14:34

Tokyo Japan


 榊は玖城と共に、再びあのマンションを訪れた。

 時刻は昼をやや回ったところだった。この時間なら、恐らく管理人はいるだろう。

 あの夜、二人の住民を保護することができたのは、今考えれば幸いだった。何故なら、<不誠実な隣人Neighbors>が影響を及ぼし続けている場所で、被害者を救出できたのだから。恐らくは<不誠実な隣人Neighbors>の異能を有する管理人が不在だったために、監視ができなかったのだろう。

 とすれば、今の方がより危険だということになる。出方によっては戦いになるかもしれない。

「行こうか」

 玖城が一歩進む。自動ドアが開き、マンションのエントランスに踏み入れる。まだ異状はない。

 管理人室には明かりがついていた。

 知らずのうちに奥歯をきつく噛みしめていた榊は、不意に玖城に肩を叩かれてはっとした。

「恐らく私の見立てでは、今回の<不誠実な隣人Neighbors>は<付与G I F T>の異能をもっている。このマンション全域が、メンゲレの実験室であり医務室というわけだ……何かあったときは、すぐに支部へ連絡して救援を要請するように」

 笑ってみせ、玖城は管理人室のドアをノックした。

 中から出てきたのは、温厚そうな壮年の男性だった。作業着を着て、先ほどまで清掃作業をしていたのか、首にタオルを巻いている。

「何か御用でしょうか」

 玖城は笑顔を浮かべたまま、礼儀正しく一礼した。

「お忙しいところ申し訳ございません、少々お話を伺いたく存じまして…お時間をいただけますか」

 顔を上げる瞬間、玖城は管理人の瞳を見た。

 その瞬間に何が起きたのか、榊には分らなかった。

 管理人の膝から力が抜けた。半ば沈み込むようにその場に倒れ、昏倒する。

 見覚えがある光景だった。玖城と初めて出会ったときも、彼はこの力を学校関係者に使っていたではないか。

 だが、驚いていたのは玖城だった。これほどまでに自分の<絆侶Comrade>が相手に効果を及ぼすとは。何等かの異能によって干渉した場合、相手が<不誠実な隣人Neighbors>ならば抵抗があると思ったからだ。


 そのとき、榊のスマートフォンに着信が入る。

 私物ではなく、<歴史補填局S.H.M.N.>から支給されたものだ。慌てて応答する榊の耳に、緊張のため早口になった古要の声が響く。

「榊さん、玖城さんに伝えてください! 今回の案件、読みが外れました…管理人はただの人間です!」

 はっとして玖城を見る。着信の音は玖城にも聞こえているはずだ。怪訝な顔をする玖城に、榊はスマートフォンを押し付ける。

「玖城さん、支部から連絡です、早く」

 受け取る玖城。榊はエントランスの周囲を見回した。

 管理人でないなら、原因はどこだ。<不誠実な隣人Neighbors>の異能はどこから。

「本部の解析では、今回の<不誠実な隣人Neighbors>の<始祖Origins>はメンゲレ医師じゃありません、人間じゃな」

 唐突に電話が切れた。

 同時に、凄まじい音がしてエントランスの扉が閉まる。

 反射的に手すりを掴んで押してみるが、入り口の扉はびくともしない。

 

 閉じ込められたか。

 しかし今は昼間だ。大声で助けを呼べば外の人間にも聞こえるだろう。

 そう考えて扉の窓から外を覗いた榊が見た光景は、目を疑うものだった。


 煉瓦造りの建物とポプラ並木がずっと彼方まで続いていた。

 駅前の商店街など、どこにもなかった。

 ここはどこだ、と目を凝らした榊は、道の先に鉄門を見た。その鉄門の上には、アルファベットが綴られていた。

 ここからでは鏡文字になる。しかし榊はその言葉を見たことがあった。

 Arbeit macht frei.

 それは、アウシュビッツ・ビルゲナウ強制収容所の入り口にある、有名な言葉だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

亡失特異点 ~Lost Singularity~ 不死鳥ふっちょ @futtyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ