第二章第五節

 <歴史補填局S.H.M.N.>日本支部に戻ってきたのは、午前3時を回った頃だった。

 昼間に仮眠を取っておいたのだが、さすがにこの時間になると倦怠感が襲ってくる。任務後のメディカルチェックを済ませ、医務室の外にある自販機でカフェオレを飲んでいる榊に、玖城が近づいてきた。

「お疲れ様、榊くん」

 はっきりと任命はされてはいないが、今のところ玖城は自分の上司にあたる地位にいる人間だ。座ったままでは失礼だと思い、カフェオレを手に立ち上がる。

「玖城さん、お体の具合は」

「ああ、あれか」

 玖城は微笑みながら小さく頷いた。

「もう大丈夫だよ、あれは……あのマンションの中でのみ発生する異状だったようだ。マンションから離れた時点で、だいぶ回復はしていたからね」

 確かにマンションに入った直後から玖城の体調は悪化していた。自分にはほとんど感じられることのないものだったが、もしかすると異能の有無も関係しているのかもしれない。

 そのことを尋ねようと顔を上げたが、運の悪いことに、わずかに早いタイミングで玖城が別の話を切り出してきた。

「保護された女性は現在救命措置が取られている。担当する医師からの報告では、塩分摂取過多から起きる極度の脱水症状だということだ」

 脱水症状。その言葉自体は聞きなれたものだ。

 しかしなぜ、マンションの一室でそれが起きる。

「自分が女性を発見したとき、あの人は洗面所の前で倒れていました。あの部屋で何があったんですか? 水も飲めないほどに……」

「そこなんだがね」

 声のトーンを落とし、玖城は上体を前に倒した。大きな声で話しているのを聞かれたくない内容なのだろう。

「水道から出る水は、全て塩水だったらしい。女性の症状は、海水を飲んだときの症状に酷似していたそうだ」

 つまり、あの女性は身動きすらままならないまま、外にも行けず、水道をひねれば水は出るものの、それは体調をさらに悪化させる塩水だったということか。

「付け加えておこう。これは<不誠実な隣人Neighbors>案件だ。つまりは水道から出る塩水という現象は、<不誠実な隣人Neighbors>によって引き起こされた異常現象だったというわけだ」

 それなら、と榊はあることに思い当たった。

 都内マンションであるなら、その他の部屋にも住人はいる。駅前のあの立地だ。空き部屋と言うことはあり得ない。

「なら、他の住人の救助も……」

「榊くん、今回引き起こされた異常現象は、真水が塩水になるということだけではないんだよ」

 玖城は右手を広げ、親指を曲げて見せた。

「今回の塩水による脱水症状に加え、あと二件の被害が報告されている。一つ目は破傷風への感染。もう一つが虫歯の悪化による口腔崩壊。それぞれ単独なら通常でも起こり得ることだが、この二つはなんと同一の子供、9歳の女の子に発生している」

 ならば、共通点は女性ということか。それを尋ねようとしたときに、廊下の向こうから職員が現れて玖城の名を呼んだ。

「ちょっと失礼するよ」

 榊の肩を軽く叩き、立ち上がった玖城は休憩コーナーから少し離れたところで職員と話を始めた。

 口腔崩壊と言う言葉は、教師をしていたころにも聞いたことがあった。すなわち、虫歯を放置することで多くの歯が虫歯になり、未処置のままでいることから歯が崩れてしまっていることを指す。子供の場合は、ネグレクトなどの虐待された児童に多く見られる。

 あのマンションは良い立地にある建物だ。家賃も相場よりは高いだろう。外見は豪奢とまではいかないものの、清潔感のある建物だった。

 前を通るだけでは、そこの住む人々のことまでは分からない。ベランダに観葉植物が見えれば自然を愛する住民が、鯉のぼりが見えれば子供がいる住民がいるのだろう、程度だ。

 家庭は容易に人の目に触れない。今日すれ違った人が、自宅でどのような生活をしているかまではわからない。

 陰鬱な気分を感じ、ため息をつく榊に、玖城が戻ってきた。

「さっきのマンションの別の住民が緊急収容されたらしい。40代の男性で、マラリア感染症を起こしていたらしい」

 この報告で、女性のみに発生する現象と言う線はなくなった。しかしあまりにも多様すぎる。共通点を探すも、見当もつかない。

 しかし、玖城はそうではなかったようだ。

「これはまだ他言無用で願いたいが……今回の<始祖Origins>の推測は今のところできているよ」

 職員から受け取った書類をめくり、玖城は短い口髭を生やした男性の写真を指し示した。


「ヨーゼフ・メンゲレ。第二次大戦中、アウシュヴィッツ収容所に勤務していた医師だ」

 

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