第二章第四節

 そのマンションは駅から歩いてすぐの場所にあった。

 事情を知らなければ何の変哲もない場所。商店街を抜け、表通りを少し外れれば住宅地が広がり始める、そんな場所だった。

 到着時刻は午前2時20分。終電もなくなり、辺りはひっそりとしている。遠くにコンビニの明かりが見えるが、大方の店は営業を終えている。

 そんな住宅地を、榊は玖城と二人で歩いていた。

 マンションのエントランスには明かりが灯っていた。自動ドアを抜けた先を進むと管理人室とセキュリティドア。当然ながらこの時刻、管理人室は不在だった。

 今時、住み込みの管理人がいる場所などほとんどなくなっているだろう。管理人がいるなら話を聞こうと思ったがそれはできない。

 玖城が取り出した鍵で、中へと続くドアが開く。その鍵をどのようにして手に入れたのかか気になったが、榊はその疑問を腹の中にしまっておくことにした。

 中に入ろうと歩を進めた榊だったが、不意に袖を掴まれる。

「待つんだ、榊君」

 振り向いた先にあった玖城は、見たこともないほどに険しい表情をしていた。何かを警戒しているのだろうか、と表情から読み取ろうとした榊から、玖城はややあって指を離した。

「そうか、君は……いや、済まない」

 ポケットから取り出したハンカチで玖城は口元を押さえる。大きく息を吸い、額に滲む脂汗を拭う。

「行こうか」



 割れるように頭が痛い。

 体が思うように動かない。どうしてこんなことになってしまったのか、と幾度考えたところで、答えが出ようはずもない。

 今はただ水が欲しい。水を飲みたい。喉を潤す水が欲しい。

 痙攣し、硬直する指でプラスチックのコップを掴む。かつては歯磨きのときに使うものとして洗面台に置いてあったものだが、今はそんなことを気にしてはいられない。

 腕の力だけで体を引きずり、洗面台に手をついて起き上がる。力の入らない足は重く疼く。

 蛇口のバーを上げると、勢いよく澄んだ水が迸る。あれほどまでに渇望していた水が目の前にあるのに、一瞬動きが止まってしまう。

 また、あの味がしたら。

 だが不安よりも乾きの方が強かった。震えるコップを水流に近づけて水を汲む。それを唇に近づけ、一口を含む。

 強烈な塩の味が舌を刺す。

 激しくせき込み、コップから手を離す。忌々しい塩水を流すだけの蛇口を止め、その場にくずおれる。

 水が欲しい。だが水道から出る水はすべて塩水だ。

 絶望のせいか、頭痛がひどくなってくる。強い耳鳴りの奥で、子供の足音が聞こえた気がしたが、それ以上は意識を保つことはできなかった。



 マンションの中に入った玖城は、明らかに様子がおかしかった。体の不調を感じていることは明らかだ。それの原因は分からなかったが、玖城のサポートのために自分がいるのだ、と榊は己を叱咤する。

 エレベータに乗り、ひとまずは3階を目指す。目的があるわけではないが、このマンションは7階建てだ。異常が全ての階で起きているのか、それとも特定の階のみなのか、それを判断する材料にはなるはずだ。

 エレベータ自体に異常はなかった。それどころか、全てが不自然なまでに自然だった。照明、壁、床、空調、どれもが自分のよく知る機能を果たしているだけだ。異音も異臭もなく、エレベータは3階に到着した。

「先に出ますね」

 それだけを伝え、榊は慎重に外に出た。

 いささかなりとも冷風を運ぶエレベータの外は、熱気に包まれていた。

 深夜と言えど、東京の夏の熱気は異常だ。熱せられたアスファルトが保温効果を果たしているために気温は下がらず、蒸し風呂のような環境になっているということを、古い記事で見たことを思い出す。

 並んでいる無数のドアと、明かりの消えた窓。その一つ一つに人々の暮らしがあり、そして今は眠っているのだろう。誰かがいる気配はない。

 マンションの廊下は通りに面したところから、大きく右に曲がっている。後ろを見ると、玖城がハンカチで顔を押さえたまま俯き、歩いている。

「玖城さん、本当に帰った方がいいのではないですか」

「いや……進みたまえ、榊くん」

 玖城の不調はこのマンションに入ってからだ。車の中でも、エントランスでも、玖城の様子におかしいところはなかった。

 ではなぜ、自分は平気なのか。

 そんなことを考えながら角を曲がった榊は、ぎょっとして足を止めた。

 廊下に、女の子がいた。

 小学校に上がる前くらいか。水色のワンピースにピンクのスニーカーを履いた格好で、榊と目があっても動こうとはしなかった。

 誰だ、この子は。

 このマンションの住人だと考えるのが妥当だろう。しかし今は深夜の2時だ。こんなところで何をしているのか。ボールなどの遊具を持っているわけでも、近くに大人がいるわけでもない。

「君は……」

「お母さん……具合悪そう」

 女の子は小さい声でそう告げた。

「お母さん……君のお母さんが、具合悪いのかい」

 榊は女の子の言葉に少し付け足しただけの言葉を返す。

 小学校教諭時代に身に着けたやり方だった。大人の思考で解釈した言葉は、子供が理解できないことが多い。それなら知りたい情報を一つか二つ付け加えて、子供の言葉で返してやれば、相手は理解しやすい。

 案の定、女の子は頷いた。

「こっち」

 女の子は榊に近づくと、手を握ってきた。

「玖城さん……すぐ来てください、先に行きます」

 まだ角を曲がっていない玖城にそういうと、榊は手を引かれるままに一つの部屋に入った。


 中は乱雑に物が散らばっていた。

 母親と少女の二人暮らしなのか。男性が使いそうなものはそこにはなかった。

 電気がついている奥の部屋のほうへ、少女は手を引いていく。

 そこで榊が見たものは、倒れたまま動かない女性の姿だった。

 榊は少女にここで待つように伝え、急いで玖城の判断を仰ぎに戻っていった。



 約20分後、<歴史補填局S.H.M.N.>の救護班が到着。

 極度の脱水症状と腎不全と判断した救護班は女性を治療センターへ移送。

 玖城と共に<歴史補填局S.H.M.N.>へと戻った榊は、そこで幾つかの報告を受けることとなった。

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