狂おしいほどのイリデッセンスを

高橋末期

狂おしいほどのイリデッセンスを

 コンクリートの壁が映る三角形の窓ガラスに、ショートボブの髪型をした彼女の顔がボウッと浮かび上がる


 オイルランタンの光によって、段々と裸姿の彼女の背中が橙色に明るく照らされてきた。やけに黒い背中だなと、わたしの目が慣れてくるとそれは黒ではなく、石渡さん――石渡鋳音子イネスの背中にビッシリと彫られた、刺青だった。


「こいつのせいで、気軽に温泉にも入りに行けないんだよなあ」


 ペットボトルに満たした謎の琥珀色の液体をグビグビと飲み、「それをぜんぶ飲み干して」と、残りの半分をわたしに手渡す。


「これは……」


「蜂蜜酒だよ」


「わたし、未成年ですけど……」


「じゃあ、フリでいいよ。どうせ、この儀式をやる過程も意味不明だし……アイツが用があるのはわたしだけだからな」


って?」と、聞こうと思ったが、「アイツ」の所で、彼女から強い怒りの感情を感じ取り、わたしは思わず躊躇する。


 千葉の浦安にある巨大テーマパークの夜のパレードに使われているような、懐かしいシンセサイザーの音楽が狭い室内に流れている。


〈寒く霧の深い朝、私はある警告が空から聞こえた。それは誰もが時間のゆとりも持てないほどの、支配の時代についてのものだった。種子が枯れ果てた場所で、物言わぬ子供たちは寒さの中で震えていた〉


 妙だな、この英語の歌詞……ポップな曲調にしては妙に不穏な気がする。


「この背中の刺青は、タコをモチーフにしているものでね、代々わたしの一族が継承する、由緒あるトライバルタトゥーなんだ。蛸ってね、宗教上の理由で食用を禁止しているユダヤ教の他にも、一部の西洋文化圏では地獄や悪魔そのものの象徴なの。深海からやって来た、鱗を持たない、異形の怪物……それを畏怖し、敬服し、崇める……やがて、その人間からの撒き散らされた恐怖を吸い取り、糧にして、顕現する神のようなものが創られていく……なんか、アメ横のたこ焼き屋に行きたくなってきちゃったな」


 カチッと、石渡さんが左手を見たこともない装置に入れた。甲の辺りにネジのようなものが配置された指先に長い棒が伸びている金属製のグローブを、テーブルに固定された装置に上に装着させると、長い深呼吸をして、背中をわたしに向けたまま、顔をわたしに向ける。


「そんじゃ、始めようか。琳ちゃん……物語を聞かせてくれ」


「……物語?」


「ここまで、わたしに出会ってきた過程や理由を聞かせてくれ。その代わりに、わたしも同じような物語を聞かせるから。わたしとあなたで、この部屋の空気を変える。アイツを呼び出ししやすい空気を作りだすんだ……だから、お願い……物語を……あなたのその能力についての、物語をわたしに聞かせて」


 少しだけ振り向いている彼女の瞳が、わたしの瞳を覗いているが、その瞳は真っ黒に瞳孔が開いていた。その瞳を見て、彼女から漂うただならぬ雰囲気に押されて、わたしは覚悟を決める。


〈寄ってらっしゃい! 寄ってらっしゃい! 寄ってらっしゃい! ショウを見ておくれ!〉


 CDラジカセから、そんな意味の歌が聞こえた。本当に……わたしはこれからどんなショウを見せられるのだろうか。


 カタカタという音がした。テーブルの上に置いた祖母の遺品であるモルダバイトが、地震でもないのに、ひとりでに震えている。虹色に輝きながら、その奇妙な遊色効果をまざまざとわたしに見せつけてくる。


「これより、鑑別を開始する。始めてくれ」


「……わかりました。あれは六歳の頃の事です」 



 六歳の頃の記憶だ。


 大きな扉を開けると、白くだだっ広い、広大な空間に、無数のチューブに繋がれた祖母が、虚空を見つめていた。心電図音のピッピッという音が、部屋の中で反響しているが、それを見守るわたしの家族は、無言でその寝たままの祖母と、入室したわたしをジーッと無言で見つめていただけなのは、何か異様な非日常さにゾッとした。


 わたしに話があると、母親に手を引かれ、祖母の口元に近寄ると、それまで黙っていた祖母がわたしを見ると、小さな声で。


が見えるか?」


 そういって目線を再び、虚空を見つめた。祖母の視線に確かにはいた。照明や、窓の外の外光による反射だろうか、だけど、その日は雨なのにも関わらず、得体の知れない「虹色」の塊が天井に張りついていたのだ。それを見ながら、無言で頷くと、祖母は。


「あの色を忘れるんじゃないよ、りん


 そう言って、祖母は息を引き取った。わたしの手元には、祖母が肌身離さず持っていた緑黒色のテクタイト……モルダバイトのリングを握っていて、うっすらと、さっき天井に張りついていた虹に似た色が発光していかと思うと、そのまま消えた。


 そんな懐かしい過去の夢を見た日の深夜、何かの物音がしてわたしは目を覚ます。


 一階の方へ降りてみると、わたしは唖然とする。祖母の部屋が、嵐にでも巻き込まれたかのように、滅茶苦茶に荒らされていたのだから。


「あの色を忘れるんじゃないよ」


 悪い予感がした。さっき見た夢の……祖母の遺言をふと思い出して、わたしは自室のベッドに戻ると、その予感は的中した。祖母の遺品である、モルダバイトのリングがどこにも見当たらない事に。


 コンコンという窓を叩く音がした。そこへ目線を向けると、ここが二階なのにも関わらず……白い肌に、妙に頬が下に垂れさがった、髪の長い、見知らぬ太った女が……蛇のような目をしながら、裂けた口を吊り上げてニタァーと笑っていたのだ。



 午前十一時丁度ぐらい、その日は、夏本番手前の大雨の日だった。雨の日はどうしてだか御徒町の人の往来が少なくなる。


 妙に今日は背中が痛く感じていた。こんな日は、常に嫌な予感がしていたのだ。


 ふと、わたしは外に飾っているショーウィンドウの方へ目を移すと、やっぱり、彼女はそこにいた。身長はわたしと同じ150センチほど、真珠のような白い肌と、日本人形のような小さい鼻と口を持つ、サイドポニーテールの髪型が印象的な、恐らく「育ちの良い」学生と思しき彼女は、展示品として飾っているモルダバイトのリングを見ているのだろう。


 学生なのだろうか、全身が紺色の基調で統一された古風であり清楚な盛夏服で、着ている制服をスマホで調べてみたら、台東区ではなく隣の文京区にある、そこそこのお嬢様学校の制服であった。


 彼女はわたしと目が合うと、恥ずかしそうに目を伏せて、そのまま店の前を後にした。さては学校をサボって、御徒町で宝飾品かレアストーンでも物色しに来た、わたしのような石好きのお嬢様なのかなーと、推測してみた。しかし、あの大雨の日以来、ポニーテールの彼女は必ず、午前十一時に、あのモルダバイトを毎日欠かさず見に来ていたのだ。それも平日の二週間ずっとだ。


「いらっしゃい、よかったら店の中を見ていく?」


 結局、わたしの好奇心が勝ってしまった。


 ショーウィンドウの石を別のモルダバイトのリングや、同じようなデザインの枠に留まっている緑色が濃い別の石にすり替えてみたら、彼女はすぐに別の石に替わっている事に気が付いたらしい。慌てながら、ショーウィンドウの中を何度も何度も、探し回っていた。単なる冷やかしではないという事は分かったので、わたしは彼女に声をかけてみたのだ。


「で、でもわたし……」


 御徒町では珍しくもなかった。店の入り口に「一般人、関係者以外の入店お断り」の貼り紙を見ながら、彼女は躊躇していた。


「ああそれ? 構わないよ。それにあんたが一般人じゃないのは、よーく知ってるから」


「……お邪魔します」


 わたしはゆっくりと扉を開け放ち、彼女を手招く。


「いらっしゃい、リングワンダリングへようこそ。この店は、枠から外した原石を新しいデザインのジュエリーとして加工するのを専門としているお店でね、わたしはここの三代目。コーヒーと麦茶どっちがいい?」


 わたしが渡した名刺を見ながら、名も知らぬ彼女は「いえ、おかまいなく、石渡……」


鋳音子イネス。名付け親はわたしの祖父でね、イネス石が由来なの。とんだキラキラネームだし、苗字がまんま、石屋の家系って感じがして、あんま好きじゃないんだけどね。イネスっていう意味も、ギリシア語で『肉色の繊維』っていうのよ? あんまりじゃないの」


 わたしは店内のショーケースから、例のモルダバイトのリングを取り出した。


「このリングに留まっている石はモルダバイト――テクタイトとも言うよね。ギリシア語で……」


「テクトス……『溶けた』『型にはめた』という意味ですよね。流れ星に乗ってやってきたこの石は、砕けた隕石からもたらされる、外宇宙からもたらされた天然鉱物だと信じられていた」


「へえ……詳しいね。かつてはそういう説もあったけど、テクタイトの正体は、巨大隕石の衝突による、衝撃と圧力と熱によって産み出された、天然ガラスだと言われているわ」


 コトンと、そのリングを彼女の目の前に置く。


「あの素手でも?」


「大丈夫よ」


 彼女は、そのモルダバイトのリングを手に取り、まじまじと見つめていた。


「隕石衝突によって跳ね飛ばされた岩石が融解し、空中で急速に冷却されたんだ。表面をよく見てみると、ポコポコとした穴のようなものがあるだろ? 空気摩擦による溶解溝、その凹みが『ディンプル』と呼ばれていて、テクタイトが飛んだ角度や方向が分かるんだ」


「方向……ですか?」


「今から1500万年前のドイツ・ネルトリンゲンに落下した『リース・クレーター』によってもたらされたものでね、そこから250キロ離れたモルダウ川にシャワー状に散らばった事が解明されたんだ。だから、モルダバイトっていうのよ」


「はあ……」


 名も知らぬ彼女は、わたしの話を聞いているようだが、どこか石の色を見ながら、別の事を考えているようにも見えた。


「そのモルダバイトの大きさは15カラット、脇石のユリの花に散りばめた天然メレダイヤはSI2クラスのものを総合で2カラットを使っている」


「百合の花?」


「ショーメっていう、パリにあるジュエリー工房のデザインが好きでね。百合の花は、そこでよく用いられる象徴的なモチーフなのよ。フランス国王のエンブレム……純潔を意味するモチーフがね」


 彼女はリングをカウンターに置くと、わたしの顔を真っ直ぐと見つめた。珍しい……彼女の瞳の色はアクアマリンのような薄い青を持つ碧眼だった。仕事でよくやってくるインド人でもよく見かける瞳の色だ。


「石渡さん。お願いがあるんですが、このリングをどうか売って貰えないでしょうか?」


 何となくそんな気はしていたが、まさか本当にこれを買おうとするとは思わなかった。いくら彼女がお嬢様であっても、学生がキャッシュで買える値段ではないからだ。いや、モルダバイトぐらいなら、そんなに高くはないが、こいつは……表の注意書き通り「一般人、関係者以外の入店お断り」でもある代物なのだ。


「あー……ここまで、見せびらかしておいてアレだけどさ。それ売り物じゃないんだよね」


 大体、この一言で大方の客は諦めてくれるが、彼女はそれでも諦めが悪かった。


「それでも……売るとしたらいくらですか?」


「……お嬢ちゃん」


「いくらなんですか?」


 本当はダメだけど、こうなったら法外な値段でも言って帰ってもらおうと、わたしは電卓を叩き、彼女に見せつける。


「百万……」


 かなりぼったくった値段だが、ボンボン学生を黙らせるには十分な値段だった。彼女はモルダバイトのリングと、電卓に表記された値段をジーっと硬直したまま眺めていた。嫌な雰囲気になってきた。


「お茶のおかわりを持ってくるよ」


 わたしが席を外して、店の奥にある冷蔵庫からお茶を入れてると、防犯用の鏡から、ゆっくりとモルダバイトのリングを握ろうとする右手が写っていた。わたしは思わず、大きな溜め息を吐く。


「それにしても、理解できないなー」


 思わず彼女はビクッとした。


「その若者らしからぬ馬鹿丁寧な言葉遣い、歩き方やお茶を飲むときの作法に仕草、シワや埃一つない、お嬢様学校の制服を着こなす、どう見ても裕福そうな家庭で生まれ育っていそうなあなたが、それを盗むリスクを犯してまで、そのリングに執着する意味がね、全く理解できない」


「わ、わたし……盗みなんて……」


「小売店や展覧会で、何度か務めていた事があってな、宝飾品を盗むヤツは、パターンが大方読めるんだよ。緊張時の瞬きの回数、手元の不自然な震え、髪を触る仕草、足先がすぐに逃げられるように、出口の方向へ向かっているとかでね……止めたほうがいい。わたしの店もそうだし、外には何十というカメラが監視している。あなたの名前は知らなくても、その制服と顔で身元がバレるのはあっという間だろう。御徒町という街はそういう場所なんだよ。そんな若い歳で、窃盗だなんて、ご両親が悲しむぞ」


 彼女が右手に握るリングが、コトッと音を立てながら、カウンターに転がる。


「悲しむ訳ないですよ……両親が……あの母親が悲しむ訳なんて……」


 そのまま、彼女は顔を覆いながら泣きじゃくる。やってしまった。


「困ったな……」


 わたしは転がったモルダバイトのリングをまじまじと見つめる。背中の痛みと、嫌な予感の正体が何となく分かったような気がした。


「椎名……琳ちゃんでいいかな……」


 その碧眼の瞳にはピッタリの名前だと思った。一時的にお店を閉めて、近場の喫茶店で、わたしは彼女から事情を聞いていた。


「はい」と、椎名さんは小さく返事をした。


「それじゃあ、あなたはこのモルダバイトが盗まれたものだって言っているの?」


 事情を聞いてみると、話はとても単純だ。彼女の両親は、海外で働く事が多いらしく、母方の祖母の元で育てられていて、それも小学校に入る前にはその祖母も亡くなったという。数か月前、彼女が今現在、暮らしている祖母の家に空き巣が入り、それで形見であるモルダバイトのリングが盗まれた事が判明したらしい。


「……おっしゃる通りです。しかも、そのリングは亡くなった祖母から譲り受けたもので、どうしても返して頂きたかったんです」


「どうしてこれが、その盗まれた同じ石だと分かった訳? 枠も外して、デザインも違うのに」


「そのインクルージョンですよ。遊色効果イリデッセンスをもたらすその虹色のインクルージョンが……」


 わたしはその話を聞いてギョッとした。今彼女はなんて言った?

 

 モルダバイトは、オパールのような、目に見える遊色効果を全く持たない鉱物であり、スターやキャッツアイなどの、変彩効果なんて以ての外だ。それが今……この椎名琳という少女は、なんと言った?


「も、もちろん! モルダバイトが虹色に光る訳がないことは十分知っています! わたしの目がどうかしちゃったのかもしれないですよね……」


 わたしは彼女の手を思わず握る。もしかしたら……。


「え?」


 もしかしたら……この子はわたしと同じ、人間なんだと確信した。


「ひっ!」


「見えた? いえ……見えたはずだよ」


 わたしと椎名さんの腕から、ポツポツと鳥肌が立っていた。


「溺れていた? 今の……水の中? む、無数の蛸の足のようなものが……それに……これ、強い怒りの感情が……石渡さん……あなた、一体?」


「椎名さん……あなた、いずれ死ぬわよ」


「え?」


 虹色に見えるというモルダバイト。わたしのこの記憶が見えるという共感能力……間違いない、椎名琳はわたしと同じ力を持っている。そして、アイツらと関係しているのは、確かだろう。


「はあ……行くぞ」


「け、警察ですか?」


 怯えた子犬のような目つきで、彼女はわたしを見上げた。


「違うよ。この石が本当にあんたの祖母のモノなのか、確認しにいくんだよ。盗品で商売するわけにもいかないからね」


 わたしがそう言うと、椎名さんが怯えた子犬から、ボール遊びをしている子犬のような笑顔にへと一瞬にして、切り替わったのだった。



「午前一時の深夜、酔いを覚ましに夜風に当たろうと、家の外に出たら山の上の方に何か違和感があると気が付いた。何か黒いものが山の頂の向こう側の方で、はみ出ていたのだ。しかもアレは少しだけ揺らいでいて、くるりと回ると、それは人の顔のようなものだった。巨大な人の髪が、山の樹木のようにソヨソヨと揺らいでいたのだ」


 石渡さんの語る物語……怪談と呼ぶべきものは、簡素で短い話ではあるが、妙に惹きこまれる説得力を持っていた。


「遠野物語って知ってる? 二十世紀初頭、柳田邦男という民俗学者が岩手の遠野という土地で訊いた伝承や怪談、奇談を集めた本があってね、今の話のように、短い話の中で、得体の知れないモノを語っているものもあるのよ」


「得体の知れないモノ……」


「そう……その物語の体系は妖怪や幽霊、神様の類の仕業だと信じられているけど、結局のところわたしは根っこの部分は一緒なんだと思うんだよ……この本の序文でも、『願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ』と書いてあって、時として戦慄の物語は、人から人へと伝承され、拡散され、誇張され、増幅され、現代へとアップデートされる。これと同じような事が、同じ頃、アメリカのある地方からでも発生したの。これを語りて平地人を戦慄せしめる物語の体系がね」


「……その場所は?」


「その名は『アーカム』。呪われし因習渦巻く、古き神々が眠る場所。そして、そこが――」


 ――イネス。


 密室なのに、風が吹いた気がした。その風に混じって、誰か……聞き覚えのない、誰かの声が、石渡さんを呼んだような気がした。


「……はじまるわね」


 石渡さんは、バックから何故かトランプとサイコロをテーブルに置いてから、両手を思いっきり上げて、プールで飛び込みこむような姿勢をすると、両腕をありえない方角へぐるりと捻じ曲げて、一気に肩の骨を外したのだ。



 石渡さんの手に触れた瞬間、目の前のコーヒーに引きずり込まれたかのように、わたしの視界が一瞬で真っ暗になり、イメージのようなものが倍速で再生された。まるで、深い……深い、底なし沼に引きずりこまれるような感覚。黒い水の底には、何か、魚の大群のようなものが蠢いていて、段々と近づくにすれ、それは蛸かウナギのようなヌルヌルとした足のようなもので、その中に、見知らぬ女性が、裸の姿で捕らわれていた。その女性を見た瞬間、それを見ているわたし自身に、強い……果ての無い怒りの感情が流れ込んできた。


「絶対に許さない」という、強い感情。それは、あの捕らわれた女性に対してではなく、黒い水そのものに対してのような気がした。


 石渡鋳音子……彼女は一体何者なんだろう。わたしのこの不可解な力の秘密を知っているなら、このまま逃げる訳にもいかなかった。それに、彼女が言っていた「わたしがいずれ死ぬ」という事……ひょっとしたら、さっきのイメージと関係があるのかもしれない。


 石渡さんは同じ御徒町にある、古い雑居ビルの一室にわたしを連れてきた。


「ヒールド宝飾研究所?」


「いわゆる、鑑定鑑別機関だよ。石の分析に関してだったら、ここに来るのが一番なんだけど……」


 石渡さんはやたらと、事務所に入るやキョロキョロと見渡し、やけに辺りを警戒している。


「どうしたんですか?」


「いや……ここの鑑別士がちょっと……アレで」


「アレ?」と、聞こうとしたら――。


「イッ! ネェ! スゥ!」という、甲高い歓声と共に、金髪ハーフアップの外国人と思しき、幼女が石渡さんに突然、抱きつく。


「イネス! イネス! わたしのイネス! やっとわたしが恋しくなったのね! 今日はもう逃がさないから! 今日はもうお店を閉めて、一緒に湯島か鶯谷のホテルにいこうよ!」


「やめてよね、キャリー……一応、未成年の学生がいるんだから」


「こ、子供がどうして……」


 わたしのその一言に、キャリーと呼ばれる少女はさっきまでのあどけなさから、目つきが一気に悪くなる。


「なんだ、このガキはっ? てめえ、イネスの何だよ! ああっ?」


 その表情の切り替わりの早さに、わたしは呆然とした。


「わたしの客だよキャリー」


「客っ? どう見たって、学生じゃん!」


 どう見たって、あんたは子供でしょ……とも、言えない。


「それがな……」


 そっと、石渡さんはキャリーに、小さな声で耳打ちをした。


「へえ……モルダバイトが虹色に……ねえ?」


 わたしを舐め回すように見ながら、キャリーはわたしに近付くと、いきなりスカートをめくった。


「ちょっと! この子!」


「あー確かに……こりゃあ長くは持たんねぇ。あなた、この盗まれたというモルダバイトが盗まれた間、なにか悪夢のようなものを見続けているでしょ? 例えば、白っぽい女に追いかけられた夢とかを見たことは?」


 彼女の言っている事は当たっていた。祖母のモルダバイトが盗まれて以降、毎夜、毎夜、わたしは奇妙な悪夢を見続けていた。その夢は決まって、見知らぬ家の中か、学校や、わたしの家……祖母の家で、白く太っている……奇妙な女に追いかけられる悪夢を見続けていた。


 悪夢と言っても、それは寝ている時だけでもなく、起きている時でさえ、彼女が出現する回数も日ましに多くなり、学校や普段の日常生活を送ることでさえも、段々と難しくなり始めた。


 あの女から逃げるように、たまたま御徒町の方へと彷徨っていたら、あの祖母のモルダバイトを使ったリングを発見したのだった。


「そりゃあ、『イグの呪い』に近い何かだな……夢の中で追いかけてるそいつ、蛇の化身か何かだよ」


「ちょっと、失礼……」と、石渡さんも、わたしのスカートをゆっくりとめくると、スマホでパシャと写真を撮った。


「石渡さんまでっ!」


「違う……これを見て」


 石渡さんがスマホの画面を見せると、鏡では気付きにくい、後ろの腰の辺りに、小さな謎の紋章のようなものが浮き出ていた。歪な円に、三つの顔のような点……というか、模様だろうか。


「これは……」


「虫刺されか、かぶれには見えないよな……古い……異教の神の印だろう」


 石渡さんは、平然とそんな事をわたしに言ったが、そんなオカルトめいた事、信じられる訳がなかった。


「それでこのモルダバイトね。ちゃちゃっと分析にかけるから、ちょっと待っていてね」


 石渡さんから受け取ったモルダバイトを持って、少女は、事務所の奥の方へと消えて行った。彼女の素性を石渡さんに聞こうと思ったら、石渡さんの口が動いていた。


「彼女の名前はキャリー・ヒールド。ああ見えても、わたしよりずっと年上で、同じ大学の卒業生なの。ここは、わたしの為に彼女自身が作った会社で……あ、勿論、米国宝石学会GIAグランドジェモロジストGGの資格も取得しているから、ここの鑑別機関は、ちゃんとした所だよ」


「はあ……は? 今、って、言いました?」


 わたしが振り向くと、そこには石渡さんの姿が消えていた。事務所の明かりも薄暗くなっていて、電球がチカチカと点滅していた。


 ああ……またか。


 諦めにも似た気持ちだ。この白昼夢を見る回数も段々と、増え始めてきている。事務所の奥の方……給湯室っぽい部屋がある所だろうか、ウォーターサーバーのようなものが置いてあるのだが、その暗がりの中から、サーバー越しに誰かがわたしを見つめていた。


 蛇の化身……さっき、アビゲイルと呼ばれた少……女性も言っていた。アイツは、わたしを常に見ていて、あまつさえこうして、どこまでもわたしを追いかけくる。今は、特に何かをしてくるという訳でもないが、きっといつかは、アイツは――。


「アイツか?」


 姿は見えないが石渡さんが、わたしの肩に手を置いているのを感じていた。なんて、優しく、暖かい手なんだろう。アレを見えているのがわたしだけじゃないと知っただけで、妙な安心感を得られて、ホッとした。


「はい、そうです……って、見えるんですか?」


「若干だけどね……それにしても、椎名さんは凄いな、白昼堂々とアレを見れるとはね……素質あるし、しかも、正気を保っていられるとはね」


「それはどういう意味ですか?」


「この日本という国にはね、仏教やキリスト、ユダヤ、イスラム、新興宗教系を含めていくつの宗教団体が存在すると思う?」


 こんなときに一体、石渡さんはなんの話をしているのだろうか。


「その数は十八万だ。信者の数じゃない、この国だけで十八万もの異なる神を信じている団体が存在しているんだ。八百万の神とも言うけれど、これは明らかに異常な数よ」


「十八万……」


 その神様の数をわたしは簡単に想像できない。


「その宗教団体には、主流の神から外れた異種なる神を信仰しているものもある。そういう宗教に限って、安物の水晶やただのガラス玉に神のご利益だの、加護だの、特と運勢が上がると誇張させたパワーストーン的なものをお布施として信者に高価な値段で購入させている」


「よくある話ですね」


「そう、よくある話よ。けれど、ごく稀にその紛い物の中に、本物が混じっていたらどうする? 十八万の神の中に、本物の神がいて、本物の神を内包させたパワーストーンが存在していたら……」


「じゃあ、わたしが見えてるアレも……本物の神だと言いたいのですか?」


 煙のように、太った蛇女は消え去り、周りが急に明るくなる。わたしの目の前に、あのモルダバイトが机の上に置かれていた。

 

「終わったわよ」


 キャリー・ヒールドは、「大体分かった」というような、顔をしてニヤリと笑った。


「わたしたちはね、そういう本物の神を内包した……もしくは影響を受けた鉱物や宝石を鑑別するのが仕事なのよ」


「神を内包って……」


「モルダバイトやテクタイトって結局のところ、成分だけで見ればただのガラスの塊に過ぎないの。だから、過去に鑑別した成分データを照らし合わせて、やっとそれが本物だと鑑別出来る」


「で……それは?」


 石渡さんはもう結果を知っているような、口ぶりだった。


「ええ……このモルダバイトのは、過去のどのデータにも照合しても一致しないの。他のテクタイト同様、黒曜石に似たガラス性質は一緒で、ジョージアイトと呼ばれるアメリカジョージア州のテクタイトに似た微量なシリカとカリウムを含んでいるけど、完全にデータが一致するものがない。こういう場合、色のスペクトル分光を測るんだけどさ……これを見てよ!」


 キャリーが何枚もの紙を目の前に広げると、沢山の折れ線グラフが印刷されていた……が、全ての折れ線グラフが、別の石を測っているように、それぞれ異なる数値を表示させているようにも見えた。


「……同じ石なんですか?」


「そう、同じ石なんだよ。わたしらがこの石を緑色のモルダバイトだと思っているこれは、実際に色なんて……人間が認知できない色を放っているんだ……」


 人間が認知できない色……わたしが見ている虹色のことだろうか。


「つまり?」


「こういう得体の知れないモノは、うちらの母校がよく知ってるわよね」


「……まさか、あなたまたミスカトニック大学図書館のアーカイブをクラッキングしたんじゃないでしょうね」


「まさか! あんな得体の知れないものを電子化するほど、あの大学は愚かじゃないわよ。知り合いの司書から、1882年のとある鉱物に関する鑑別結果を照会したのよ」


「その結果は?」


 その質問にキャリーは、鼻息を荒くしながらドヤ顔を披露した。


「なんせ十九世紀の鑑別データだからね、真偽は定かではないけど、ランダムになっているスペクトルの数値の九割は一致していたの。ええ……このモルダバイトのようなものは、間違いなく、十九世紀末アーカム西郊外に飛来した鉱物と限りなく同質のものなのよ!」



 肩の骨を外すのはとっくに慣れっこではあるが、この痛みはいつまでも慣れそうにない。


「いっ……いったああっ!」


 わたしは情けない悲鳴を上げながら、背中の刺青を椎名さんに見せつける。


「ど……どうして、肩の骨をっ?」


「痛みだよ、精神的な苦痛はわたしには効かないから、肉体的な苦痛こそがアイツらの好物だからね……」


「さっきから言っているアイツって一体誰なんですか?」


 カタカタと音がした。テーブルの上に置いてある椎名さんのモルダバイトが、地震でもないのに、ひとりでに震えていた。


「それはね……そのモルダバイトと同類のものだよ。ただ……」


「……ただ?」


「いささかタイプが異なるものでさ……今から、呼ぶものも、そのモルダバイトも些細な体系のほんの一部分であると実感すると思うよ」


 部屋が一気に臭くなってきた。三角の窓の縁に、誰かの足元が見えたような気がしたが、きっと……気のせいではないだろう。



 椎名さんの実家は、上野公園から西の方、東大弥生キャンパス近くにある、いわゆる、根津のお屋敷街の近くにあった。


「ここに一人で住んでるの?」


「お手伝いさんを含まなければそうなりますね……信じられないと思いますけど」


「学生が一人で持つもんじゃないでしょ」


「……そう思います」


 椎名さんの実家は、都内に建つものとしては豪邸と呼ぶべきものだった。戦災での焼失を免れ、都内にもまだギリギリ残る大正時代に建てられたクラシックな赤いレンガ造りの外壁が特徴的な洋館だった。


 彼女の祖母が、遺書にて幼い椎名琳を名指さしで、この家を一方的に相続させたらしい。


「この家のせいで、母や父のわたしに対する扱いがまるで変わってしまいました。早く手放せるなら手放したいですけど、祖母は遺書に、この家や土地をわたしから相続させたい場合、ある条件を飲まなければならならないのを付け加えていました」


「どうせ、琳ちゃんが死んだ場合とかでしょ」


「さすがですね……その通りです」


「……ところでさ、ここに井戸ってある? 井戸の跡とかでもいいけどさ」


 邸宅の裏側に、コンクリートの蓋によって塞がれた古井戸があった。井戸の側には、妙に盛り上がった地面があり、そこをわたしはシャベルで掘り返した。すると、ソレはやはり、わたしの思惑通りにあった。


「これは動物の……蛇の骨ですか?」


 一匹どころじゃない、何百という大量の蛇の骨が、掘れば掘るほど、ジャラジャラと湧き出てくる。


「なあリンちゃん、どうして水道の蛇口っていう言葉に蛇っていう言葉が入ってると思う?」


「それは、水道管が蛇のようにウネっているから?」


「それが違うんだな。元々、中国や日本での水の守護神は、龍であって、龍の元のデザインが蛇であるから、共用栓の名前が『蛇体鉄柱式』と呼ばれるものが明治期に登場した。龍の子である蛇の口から出ているから、蛇口と呼ばれているんだ」


「それが……この蛇の骨とどういう関係があるんですか?」


「水の神がいる井戸の側に、大量の蛇の骨を埋めた。これはどういう意味が分からないか? 自分の墓の側に殺した肉親の死体を埋めたようなものだぞ。これは、冒涜的な行為であり、アイツらを呼び寄せているんだ」


って……まさか」


「そう、今リンちゃんが見ている幻覚はイグと呼ばれる蛇神の呪いの一種なの」


「だからといって、そういう事をわたしに仕向ける保証はどこにあるんですか? それよりも警察に相談した方が……」


「この国では、『呪い』っていう曖昧ななものだけでは、起訴を起こす事とさえ難しく、あまつさえ、呪いで人を殺しても、罪になることはない。それを不能犯って呼ばれているからだ」


「一体誰が……何の為にこんな……」


 まったくだ。こんなこの世の汚れを何も知らない女の子に対して、こんな大袈裟な呪いを仕向けるなんて、常軌を逸している……常軌をだって?


「逸しているならば、同じようにこちらも逸しなければならないな。目には目を……毒には毒を……か」


 わたしは無意識に気持ち悪い笑みを浮かべていたらしく、わたしの顔を見る椎名さんの顔は引きつっていた。彼女に対して、必死に真顔に戻そうとしながら、わたしは、スマホを取り出しキャリーに連絡をした。


「あの部屋ってまだ、使える?」という、メッセージを一緒に添えながら。


 

「電車の中で居眠りをしていたら、環状線でもないのに、自分が乗った筈の元の駅に戻っていた。電車を乗りなおそうと駅で待っていたら、不思議な事に、自分以外の人間がいないことに気が付いた。駅の隅の方に、何か黒い人影のようなものがこちらへの方へと手招いていた……」


「スーパーで買い物をしていると、店内放送でわたしの名前を呼ばれた気がした。店員に尋ねてみても、誰も呼んでいないという。幻聴だと思いながら、買い物を終えて、夜道を歩いていたら、スーパーで呼ばれた声と同じ声で、わたしのすぐ真後ろから聞こえてきた」


「ベランダでタバコを吸っていたら、向かいのマンションの部屋にわたしと同じようにタバコを吸っている者がいた。同じ時間、同じタイミングにだ。ある日、興味本位でその者に手を振ってみたら、その者も手を振っていた。同じタイミングでだ。それでわたしは、やっと気が付いた。の手を振っている人物は、自分と瓜二つの見た目をしている事に」


 人から聞いた怪談、奇談をわたしも淡々と、椎名さんの語りの合間に、わたしは語っていた。肩の骨を外しているせいか、背中から激痛が走る……。ある程度、この儀式には慣れているとはいえ、この痛みには相変わらず慣れない。けれど、アイツを呼び寄せる為には必要な痛みだった。

 

「ど、どうして……肩の骨を……それに、その蛸の刺青……まるで生きているように――」


「動いているように見える? いい兆候ね」


「……っ!」


 部屋のどこからか、男の笑い声のようなものが響き渡った。本当に……いい兆候だ。


「今の笑い声は? 石渡さんっ!」


 わたしは、テーブルに置いたトランプとサイコロを椎名さんにめくり振らせた。


「な、なんで……」


 トランプの柄が、すべてハートになり、サイコロの目が1しかでなくなり、絵柄がクイーンだけになり、サイコロの目が無い筈の7の目が出てきたり、顔が溶けたジョーカーになり……カードをめくればめくるほど、サイコロを振れば振るほど、ありえない現象が起き続ける……いつしか、トランプの柄と数字、サイコロの目が全て……真っ白に、何もかも消えて無くなった。


「……トリックですよね?」


「空間や時間が曖昧になっているんだよ。数字や絵柄、確率を表すトランプやサイコロが一番最適……それに時計……スマホを見な」


 わたしの腕時計は秒針が、反時計周りに狂いはじめ、椎名さんのスマホは、デジタルの時計が、88時88分を表示していた。いつのまにか「お神楽」として、再生しているエマーソン・レイク・アンド・パーマーELPも逆再生のような不協和音となっているのにも関わらず〈I'll be thereわたしがそこに行こう〉を繰り返しリピートさせている。


 テーブルに置かれたモルダバイトが更にガタガタと震え始め、例のアイツが部屋の隅の暗がりからヌッと現れた。


「ひっ……どうして……ここまで!」


 椎名さんは、逃げようと席から立ち上がるが、わたしは椅子に座ったまま、あの蛇女を傍観し続けた。


「逃げましょう! 石渡さん!」


「はっ? 逃げる? こんな時に逃げるだって? 冗談じゃない。こんななのにか?」


 ドンドン! 施錠された扉から、誰かが叩いていた。


「きっと……キャリーさんが助けに……」


「違う。あれはきっと――」


 言葉にならない絶叫が部屋の向こうから轟いてくる。ラジオのチューニングを外したかのような不協和音の叫びが。


「ああ……やっぱりか……」


「だ、誰なんですか?」


「ちょっとした知り合いだよ。大学時代のね……そんなことより、琳ちゃん……頼みがあるんだけど」


 わたしは、グローブをはめた左手を椎名さんに向ける。ロシア産の拷問器具、ピロウィクスという名の親指潰し機の改良型で、甲の辺りに五つのネジ巻きがあり、ネジを回すと金属のグローブに固定された指が、モーターの力と梃子の原理によって反対側に折り曲げられる拷問器具。椎名さんのような非力な素人でも、手軽に拷問が行える事で、その筋の者にはかなりのベストセラーだ。


「だから! どうしてわたしが、石渡さんの指を折らなきゃいけなんですか!?」


 彼女が扉を叩き続け、叫び続けていた。扉を叩くリズムに乗せて、蛇の化身の女がゆっくりと、椎名さんに忍び寄ってくる。


「琳ちゃん……扉の向こうにいる人物は、元々不治の病でね、わたしにとってのかけがえのない友人だったんだ。そんな彼女を救おうと、わたしは……わたしたちは『向こう側の世界』に接触を図って、彼女を救おうとしたんだ……永遠の命を得ようとしてね。それが、この結果ザマだ」


 わたしは、椎名さんの手を掴んで、グローブのネジを無理矢理回させた。


 バキン!と、乾いたモーターの駆動音と共に、わたしの小指が甲の方へ一気に折り曲げられる。


「いっっいあ! いああああっ! はすたあっ! はすたああっ! くふあやくっ! ぶるぐぅとむっ!」


 折り曲げられた激痛と共に、例の呪文をわたしは叫ぶと、部屋自体が振動を始めた。扉を叩く音、部屋を震わせ、モルガナイトが禍々しく虹色に輝きながら、蛇女が裂けた巨大な口を開き、椎名さんを飲み込もうとしている。


「石渡さんっ!」


「わたしを信じて、琳ちゃん。わたしの刺青を見続けて」


 もう一つのネジに、椎名さんの手を置く。


「いやだ……やめて……石渡さん……石渡……やめて! イネス!」


「ごめんね、琳ちゃん」


 わたしと彼女の手は、ネジを思いっきり回した。



 上野駅周辺には巨大な地下空間が数多く存在していると、石渡さんから聞かされた。中でも、日比谷線仲御徒町駅から、大江戸線、銀座線、京成線、そして、日比谷線の上野駅までの地下鉄の駅を一気に繋ぐ地下通路は一キロ以上の長さがあるのにも関わらず、活気ある地上の繁華街とはうってかわり、商店が一つもない殺風景な通路が永遠と続いていた。時刻は夜の八時なのにも関わらず、人の往来は少なく、急な雨風をしのげるという利点を置いておいても、誰が一体どうして、こんな無意味で空虚な通路を作ったのか、なんとなく疑問には思っていた。


「……で、これから向かう場所は、元々、太平洋戦争末期に、時の大統領ルーズベルトを呪殺しようとしていた施設でね、神田明神の龍脈の影響が強い、上野の地下に、とある異教……というより、邪教の神を呼び寄せる儀式を執り行っていたの」


 キャリーは胡散臭いオカルトめいた説明をしながら、今では見慣れない、巨大で古い鍵を取り出すと、殺風景な通路の間にあるやけに古い扉を開けた。地下鉄でもよく嗅ぐ、埃とカビと、ゴムを燃やしたような強烈な異臭と共に、地下へと続く古い石の階段がそこに現れる。


「ネクロノミンでしょ。しかも、異なる人種の血液でコーティングさせ、神代文字によって翻訳させたトンデモ本だったらしいわね」


「結果的に我々でも観測できない、異形の神々が召喚される事に……ま、祖父たちが事前に阻止したらしいんだけどね」


 石渡さんと、キャリーは、階段を下りながら、何かとんでもない事を言い放っているが、もうわたしは突っ込むのを疲れていた。


 階段のすぐ横の壁越しから、何かの地下鉄が轟音を立てながら走り去る。まるで……。


「東京の地下に巨大な生き物がいるみたいだね」


 わたしの心を読んでいるかのように、石渡さんはそう言い放つ。


「この部屋よ」


 キャリーが頑丈そうな扉を開けると、打ちっぱなしのコンクリートの八畳ほどの四角い部屋の中に、地面に固定された鉄のテーブルと、椅子が配置されているだけの質素な部屋であった……が、その部屋には何故か、コンクリートの壁を映しだす奇妙な三角形の窓がはめられていたのだ。


「拷問部屋のよう……」


「実際、拷問部屋としても使われていたそうよ。全てはアイツらの、供物の為だけだと思うけどね」


 キャリーは、バックパックから、ランタンと黄色い液体の入ったペットボトルと、小さなCDラジカセを取り出す。


「『お神楽』はどうする?」


「その言い方はやめて、キャリー……」


「メタリカやヴェイダー……じゃ安直だし、エレクトリック・ウィザード、ブルー・オイスター・カルトBÖCも……うーん」


 キャリーが何枚かのCDジャケットを石渡さんに手渡す。メタル音楽だろうか、どれもジャケットが恐ろしげでかなり仰々しい。


「こいつは?」


 石渡さんが、怖い表紙のCDを取り出す。


「恐怖の頭脳改革? いいんじゃない」


「で、キャリー……例のグローブは?」


「……どうしても、コレを使うの?」


「ええ、わたしは別に構わない」


「違うの……苦しんでいるイネスをもう見たくないだけ」


「それでも、構わない。どっちにしても、アソコに行けるのはわたしだけなんだから」


 キャリーは、わたしの事をジッと見つめた。


「妬いちゃうな。似てるんでしょ……彼女に」


「……さっさと始めるわよ」


 LEDライトを消し、部屋が真っ暗になる。部屋の扉を閉める直前、キャリーがわたしに。


「椎名琳……今から目撃するものは全て現実よ、狂気に染まる覚悟をして頂戴」



 キャリーのその言葉の意味をわたしはやっと今、理解した。


 

「ぶぐとらぐるん! ぶるぐとむ! あい! あい! はすたあ!」


 ありえない方向へ折れ曲がった薬指を眺めながら、石渡さんが、得体の知れない呪文を叫び続ける。祖母のモルダバイトが光り輝き、蛇女が巨大な口を開け、卵が腐ったような口臭を放ちながら、わたしを食べようとしていた。


「琳ちゃん……門が開いたよ」


カチリという金属音が、石渡さんの背中から聞こえた。蛸の刺青が、ゾワゾワと蠢きながら、触手の隙間から、部屋の窓と同じ……黒い……漆黒に染まった三角形が形成される。その黒い三角の内側から、人の……あ。



「ようこそ、琳ちゃん。『向こう側の世界へ』」


 一瞬、気を失っていたのか、目を覚ませば、わたしはその部屋のその色に驚愕した。


 ピンクだ。目が痛くなるほどのどぎついピンク色の蛍光色が、三角の窓の外から差し込まれ、部屋の隅々をピンク色に染めていた。しかも、部屋自体が、エレベーターに乗っているかのように、下降している……と思えば、上昇しているかのようで、まるでこれは、部屋ごと何かに……。


「乗って、移動している……」


「ビヤーキーの乗り心地は快適じゃないけど、我慢して」


「ビヤーキー?」


「名状しがたき……名も無き王の眷属よ。この部屋ごと、『向こう側の世界』を高速で移動しているの」


「……その『向こう側の世界』っていうのは、祖母のモルダバイトや、さっきの蛇女と関係しているのでしょうか……っていうか、さっきまでいた蛇女はどこに……」


「なあに……直に姿を現すさ。それよりも……」


 石渡さんが三角の窓の方へを視線を移すと、誰かがいた。まばゆいピンク色の光によって、逆光に包まれているが、ハッキリと黄色のフードを被った、顔を捉えられない人物が、窓枠から顔を覗かせていた。


「やあ、名も無き王よ。久方ぶりね」


「(石渡鋳音子か……まだ、君がここに来るのはまだ早すぎるのではないか)」


 それは声というより、わたしの脳内に直接響かせているような喋り方だった。日本語を話しているようにも聞こえたが、幾多の言語を同時に話していて、そこから一番、ボリュームを上げているような、そんな話し方。男の声にも、女の声とも捉えられるような奇妙な感覚……じっくりとこの声を聴き続けていたら、頭が、気でも狂ってしまいそうだ。


「(まあ、せっかくだから)」


 黄色のローブの人物は、つまみ食いをするかのような勢いで、部屋全体を地震のようにミシミシと揺らす。


「無駄よ。ある程度、一方的にやられるだけの脳無しではないのよ」


「(脳は大好物なんだけどな……で、君がわざわざ、ここにやってくるという事は……その子か?)」

 

 声の方向がわたしにへと向けられた。その声を聴いた瞬間、全身から鳥肌が立ち、ローブの中の彼(彼女?)の顔をなるべく見ないように、地面に顔を伏せた。


 顔を伏せるとどうしたのだろう……足元に血だまりのようなものが、広がっていた。一体誰の……誰の血が……これは、わたしの?


「(興味深い。同類の仕業か)」


 下腹部に激痛が走る。椅子から転げ落ちたわたしは、あまりにの痛みのあまり、泣き叫びながら、石渡さんに助けを求めた。


「それこそが、あなたの呪いの正体よ」


 石渡さんが、冷たい声で言った瞬間、わたしの股下から……どす黒い巨大な蛇のようなものが、這いずりながら現れ、石渡さんに向かって飛び掛かったのだ。


「避けて! イネス!」


 すると、大蛇がピタリと静止したのだ。石渡さんは、わたしの祖母が持つモルダバイトを……あの禍々しく発光させた虹色を大蛇に向けていた。


「やはりお守りなのね、この石……取引しましょう、名も無き王よ。こいつは、イグの眷属……あなたと同じ旧支配者の一部分……っていうか、あんたの親族のものよね。身内なら助けてくれないかな? わたしは確かに、あなたの供物になる存在だけどさ、このままこの石を、落としてしまったら……わたしの魂はあなたのモノでは無くなっちゃうわけなんだけどさ」


「(……)」


 大蛇が突如、輪ゴムのようにピーンと硬直し宙を舞った。そのまま、矢を放ったかのように、コンクリートの壁に向かって勢いよく放たれたと思えば、パン! と、風船が割れた音を立て、大蛇が消え失せた。


「(石渡鋳音子……矮小な存在でありながら、わたしを利用するとは……ますます、君の魂には何というか、そそられてしまうよ)」


「そりゃあ、光栄なことで。あんたの親族は、どうしたんだ?」


「(持ち主に返した。それだけだ。何にせよ、君たちのような存在にはあまりにも過ぎたものだし、冒涜的だ)」


 部屋の景色が、ピンク色の色彩が段々と薄くなってきた。


「琳ちゃん……よかったよ。これでもう、あなたは……」


 石渡さんがヨロヨロとこちらへ歩み寄って来た。


「(あ、せっかくだから、その子の魂は別だよ)」


 ローブの人物がそう言った瞬間、部屋の天井と壁が一気に狭まってきた。わたしをこのまま逃がさないつもりなのだろうか。


「琳ちゃん!」


 石渡さんが、背中の刺青を再度、わたしに見せながら、あの黒い三角の中へと吸い込まれた。



「ねえ、イネス……やっぱりわたし死にたくないなあ」


「死なせるものか……あなたを……」


 なんだこれ……石渡さんの記憶? 会話をしている相手は、一体……。


「この写本よ! この本で……あなたを! クァチル・ウタウスによって永遠の命を……」


 場面が瞬時に切り替わると、空の彼方から青白い光を放ち、小さな人のようなものがゆっくりと降下してきた。


「イネェェェス!」


 助けを求め、手を差し伸べる見知らぬ女性。その姿は、若い少女の姿から、一瞬にして老人のような姿となり、光に包まれながら、そのまま塵となって消え失せていく。


「ごめんね……ごめん! わたしのせい……わたしのせいで!」


 見知らぬ洞窟の奥で、顔の見えない白装束の人々が、石渡さんの背中に何かを掘っていた。……あの、蛸の刺青を。


「待っててね……わたしも……今すぐそこに行くから……それまで待ってて! それまで……今すぐ起きて! 琳!」



「琳!」


 目を覚ますと、石渡さんのが心配そうにわたしを抱きかかえていた。


「キャリー! 鎮静剤を早く!」


「石渡……さん?」


「琳ちゃん……自分の名前を言える? 今どうしてココにいるのかも分かっている?」


 ポカーンとしているわたしに、石渡さんは立て続けに質問をぶつけてきた。必死そうに、さっきまでのクールさは、どこに行ったのやら、涙目でわたしを介抱しているその顔を見た時、たまらなくわたしは……。


「いやあ! 凄かったです!」と、思わず吹き出してしまったのだ。



 わたしに例の呪いを仕向け、祖母のモルダバイトを盗んだ犯人が判明した。それはわたしの叔母であったのだ。


「叔母の死体は、自宅で両目を箸で突き刺して、自分の腹を引っかきながら絶命していたという凄惨なものでした」


 あの部屋で、わたしの身に起きた事をそのままやり返した形であるなら、ゾッとする。


「人を呪わば穴二つ。中途半端な呪法で、強大な神を呼び寄せたんだからな、当然の結果だよ。それにしても琳ちゃんのお祖母ちゃんは狡猾だね。自分の遺産を狙われる事を想定していたかのように、琳ちゃんをスケープゴートに、親族の膿を出そうとしていた事にさ。そのモルダバイト……いえ、『宇宙からの色』でもある、その鉱物は本来、人が扱う代物じゃないの」


 わたしは自分の首にぶら下がっているモルダバイトのリングをまじまじと見つめた。蛇神の呪いも無くなり、もう、わたしの目からは虹色には輝いてはいなかった。


「いつから気付いていたのですか?」


「なにが?」


「わたしに降り掛かっている呪いが、叔母の仕業だってことです」


「……別によくある話よ。都内の大豪邸に、一人でそれを所有している女子高校生。強大な力を持つ鉱物を盗まれた瞬間に、都合よく降り掛かる蛇神の呪い。わたしにも、身に覚えがあるからね。よくある話だよ」


 よくある話……石渡さんの背中の刺青、わたしが知らない『向こう側の世界』、その世界からやってくる邪悪な神々、その神と関係しているわたしの祖母や、それを崇めるカルト宗教、石渡さん……彼女の記憶の中にいた、救おうとした女性……わたしは知りたくなってきた。『向こう側の世界』を見知らぬ神々たちの事を……そして――。


「でも、琳ちゃん……本当にいいの? うちの店、バイト代安いよ?」


「いいんですよ……ここまでの事をしてくれたんですから……恩返しみたいなものです。それに……」


「それに?」


 そして、石渡鋳音子という人物の事も。わたしはもっと知りたいのだ。


「祖母は確かに狡猾でしたけど、わたしは感謝していますよ。だって……わたしと、石渡さんを出会わせてくれたんですから」


 店のショーウィンドウに誰かの人影が見えた。きっと、わたしと同じように、『向こう側の世界』に関わる人物に違いないだろう。わたしと石渡さんは、目配せをしながら、その客が店のドアを開け放つのを待つ。


「いらっしゃませ、リングワンダリングへ。どのような石をお探しでしょうか?」


 この客は、わたしにどんな見知らぬ世界を見せてくれるのだろうか。

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狂おしいほどのイリデッセンスを 高橋末期 @takamaki-f4

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