第9話 母親失格

 あの子は、昔からそうだった。

 いつも自分のことより周りのことを優先ゆうせんして。つらくても悲しくてもさびしくても、どんな時でも人の為に笑う子だった。


 昔も今も、私はそんなあの子に甘えている。


 7月に入ったある日の事だった。あの子が突然倒れたのは。


 あの日仕事を終えて家に帰ると、いつもの“おかえり”の声が聴こえなくて、晩御飯ばんごはんの匂いもしなかった。

 暢気のんきな私は、きっと疲れて寝てしまったんだろうと思っていた。

 キッチンの方から聴こえてくる水の音に、何で水を出しっぱなしにしているのだと私は苛立いらだっていた。

 ――――――あの子がそんなことするはずないのに。


「ちょっとー!凛、水出しっぱなしよー!!あんた何やってんの?!」


 そう怒鳴どなっても返事がなくて、その事に更に苛立った私は、乱雑にドアを開いた。


「凛!今すぐ起きなさい!!」


 その時の感情はかくグチャグチャで、今でも言い表すことができない。ただ言えるのは、あのときの衝撃と恐怖を、私はずっと忘れることはないだろうということ。


 あの子――――凛は、


「う、うそっ?!凛!凛!ねぇ凛!何でもいいから返事して?!凛!」


 慌てて駆け寄って呼び掛けたけれど、反応がなかった。

 血の気が引いた真っ青な顔で今にも消えてしまいそうなか細い呼吸をする凛は、少しでも目を離せばそのすきに死んでしまいそうで。怖くて怖くて仕方がなかった。

 震えが止まらない指でなんとか救急車を呼んでそのあと――――――私にはそのあとの記憶がない。


 気付けば私は病室の中に居て、凛のあどけない寝顔を見ながらぽたぽたと涙を流していた。両手で包み込んだ色白な手が温かいことに、ただただ安堵あんどしていた。


 朝、不自然な腰の痛みと背中を行き来する優しい温もりに目が覚めた。

 顔を上げると、白いベッドの上で柔らかな朝日に照らされたあの子は、微笑みながらこう言うの。


「おはよう。お母さん、もう元気になった?」


 それは私の台詞セリフなのに。そう言うと、


「お母さん、目、赤いよ?私はもう元気だから安心して。ね?」


 なんて言って、あの子は点滴が付けられた腕をゆっくりと伸ばすと、私の頭をそっと撫でた。


 もう、これじゃあどっちが親なのか分からないじゃない。

 私は、凛のお母さんなのに。凛を守る、頼れる存在でありたいのに。

 私は結局あの子に守られるばかりで、それが許される今に甘えている。

 私はまだ、大事なことを伝えられていないのに。


 だから、そんな私はきっと駄目だめな母親に違いない。


 私がそんな駄目な親な所為せいで、あの子は不幸になってしまった。

 ――――――私が不幸にしてしまった。



 


 それがあの子に残された時間だという。

 その時間は一年間かもしれないし、もしかしたら半年かも知れない。それに、今日じゃないとも言い切れない。とても不確実なタイムリミット。

 唯一確実なのは、来年の今頃、ということ。


 ―――――また置いてかれる―――――


 それが、担当医にこの話をされた私が、一番に思ったこと。


 私は幼い頃に両親を病気で亡くしたから、多分他の人よりも人の死を受け入れることに慣れている。それでも、大切な人に置いて逝かれるのは、どうしようもなく寂しいと感じる。


 きっと辛いのは私じゃなくてあの子なのに、真っ先に自分のことを考えるなんて、私は最低な母親に違いない。

 そう分かっていながら考えを改めない自分が大っ嫌いだ。


「凛、あなた喘息をこじらせちゃったのよ。」


 なんて言って、私はあの子をだましている。

 口では悲しませたくないなんて言うけれど、そのじつ私は逃げているだけ。

 私がまもっていたのはあの子の心じゃなくて私の心。


 凛、ごめんね。

 私は臆病で最低な駄目な母親だから、あなたに真実を告げることができないの。

 あなたの反応が怖くて、私は嘘をくことで真実を誤魔化ごまかし、すべてを先送りにするという決断をしてしまった。

 いつかはばれると分かっていたのに、知ったあなたが傷つくことも分かっていたのに、私は母親失格ね。


 いつかり固めた嘘ががれ落ちたときあの子は、私は、どうなってしまうのだろう。

 いつ訪れるかは分らないけれど、必ず訪れる “いつか” 。

 その “いつか” への不安と恐怖が、おりとなって私の心に降り積もる。



 私の生きる世界からあの子だけが消える、おぞましい未来。


 私はきっと、生きていけない。

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君と最期の365日 星月 貴音 @Takane_E

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