8. 名乗り

 おやしろの蔵を開けた頃には、もう辺りには重苦しくて湿った風が強く吹き付けて、空は間断なく稲光を走らせておった。


 儂らにとって運がよかったのは、蔵の鍵を取りに行ったら、おっ父様とさが家に戻っていたことだな。拳骨を喰らいそうになったが、天舌てんぜつの名を出したら、何か思うところもあったようだ。

 兄様たちは村へ散って、皆に家から出るよう説得に走った。あとから知ったが、これは到底間に合わなかったらしい。

 ともかく、儂らはおっ父様とさとお社へ駆けた。

 神になる娘は、干し蛇のご神体に恭しく平身して挨拶を済ませると、次に蔵を開けて様を拝んだ。

 

 みさんご様というのは、二本の髭を生やした海蛇の神様でな。

 夏至祭の日には、黒染めの布と緋染めの刺繍糸でこしらえた縞模様の大きな蛇を、大勢で担いで村中に泳がせるのだよ。

 重くて二人じゃ動かせんから、みさんご様の頭だけ儂とおっ父様とさでどうにか担いで、蔵の外へずるずると引き出した。

 娘は袖付きを脱いで深紅の胴布イェム一枚になり、素の平笠を手にして蔵の前に立っとった。

 そして、おっ父様とさは儂に問うよう促した。


 約束したのは儂だったからな。


「みさんご様が祭司さじの子、明日の祭司が、と、問うぞ! 約束、や、約定をわれと結び、天舌てんぜつわざわいを退けるに異論はあるか!?」

「ない!」

「ならば、みさんご様がそばかみとしてあんた……な、汝を祀らん!」

 

 ばきばきばきどん! 


 音がして、ちぎれた木っ端や板子や、舟が降ってきた。浜のあたりをふと見れば、真っ黒な空から細長い舌みたいな雲が垂れ下がって、風とともに舟や網を巻き上げておった。浜小屋がやられたんだ。


 おぉぉぉおおおーん、おぉぉおおぉおーん、とな。風が山犬の遠吠えのように唸っておった。

 

 おっ父様とさは真っ青になりながらも、儂の名を怒鳴った。儂はあたふたと言葉を継いだ。

「あ、新たな神となる者よ! 何者なるか、なを、名を告げたまえ!」


 化け猫娘のほうは実に堂に入っておったよ。


「我は人の身に猫をまとい、腹に異種の魂を宿す者。満ち、欠け、死に、また満ちる夜天の眷属を名に頂く者。我が名はユエ。人のにして猫の、化け猫ユエである!」


 こん時、みさんご様がぶるっと震えて、蔵の中から風が吹き抜けた。まなこ眩ませる稲光と耳つんざく雷鳴の中で、ぼんやりとした海蛇の影が娘の周りを泳いどった。


側神そばかみより様へかしこかしこみ申す! 友の願い受けし側神そばかみのその爪に、天の舌を抜き、禍い退ける力を貸したまえ!」


 そして、化け猫娘は砂浜色の髪を震わせ、叫んだよ。


「おいでませ! みさんご様!」


 儂の長い一生のなかでも、神様のお姿を見たのなぞ、この一度きりだ。鈍く輝く、赤黒縞の大きな海蛇の首にひらりと飛び乗ると、娘が裂帛の気合いを発した。


「リィィィーーールーーーー!!!」


 頭から首から背中から腕から、真珠のように真っ白な毛を吹き出して、二柱の神様が天舌の暗い雲へと空を昇っていったよ。


 ああ、やはり手の届かんモノだった。

 稲光の空を見て、儂は涙が止まらんかった。

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