6. ういうい

 それでだ。

 急場は乗り切ったようだが、そもそもの気がかりは他にあった。

「村の……他のみんなには、なんも悪さしてねえんだよな?」

「きみにも悪さはしてないんだけど」

 ぐぅのが出たな。まだ娘は後ろにおって、儂の右腕を掴む手にちょっと力がこもったもんだから、儂はあわてて謝った。

「わかればいいよ。他の人には何もしてない。薬をつくったりも、もちろん血を飲ませたりもしてない。もともと大した病気じゃないんだもん。勝手に良くなったよ。きみの家族も元気になってたでしょ?」

 儂もたいがい阿呆だが、そこで初めて気がついたよ。皆いつもどおり働きに出ておる。

 にわかには信じられんかったが、儂はまるまる二日寝込んどったらしい。


 さて土間に放った包丁だが、洗っとかんとおっ母様かさから大目玉を喰らう。だが、さっきのこともあるわけだし、拾っていいのかわからん。

 そこんところ尋ねたら、化け猫娘も悩んだ末に「じゃあわたしが洗う」と来たもんだ。拍子抜けしたよ。

 あの頃は水道もなくて、やまぱらから湧き水を引いて共同で使っとってな。

 化け猫とはいえ、見た目は綺麗な顔立ちの若い娘さんだ。当時の儂から見れば、この世のものとは思えん砂浜色の髪と瞳の、ソトから来た年上の人だ。

 ちょっと連れ立って歩くだけの事で、ひどくそわそわした。

 黙っとると負けとるような気がして、無理にしゃべった。

 聞けば、化け猫が島にやってきたのは、笠の神様に教えてもらったからなんだという。次にどこへ向かうのか、平笠を投げて決めるんだと。


 水場には幸い他の人は居らんくてな。

 化け猫娘は腰をかがめて、丁寧に包丁を洗っとったよ。

 美しい化け物だと思った。陽の光が服の布地を透かして、しなやかな身体の線が影絵のように見えた。それで、ほれ、化け猫が疫鬼エキとやりあった時に儂は、ぶさを見ちまってたから、透けて見えた身体の線とそれとが、頭ん中で結びついてしまってな。

 魅入ってしまった。

 それで、当然のように見透かされた。

「女の人の胸をじろじろ見るの、やめた方がいいと思うよ」

 顔から火が出たわ。恥ずかしくて、とっさに大きな声で言い返したんだ。


 あんたモノの怪じゃないか。


 そしたら、化け猫娘は洗ったばかりの包丁を一振りして水気を払った。

「でも胸ばかり見られるの、わたし嫌だもん」

 また人間みたいな事をいう。儂もムキになっとって、あんたモノの怪なのか人なのかと言ったら、娘はこう答えた。

「きみが決めちゃっていいよ。わたしはどっちでもいい。どっちがいい?」

 左右で濃さの違う、砂浜色の瞳が儂を見た。

 その右目だけが、猫の目みたいに縦にすぼまっておった。


 やはり人ではないのだ、と思った。だが、人であって欲しい、とも思った。人であれば、手が届くのではないかと思った。

 答えに窮した儂を、化け猫娘は両目を細めて笑いおった。

「難しいこと訊いちゃったかな。い」

「バカにすんな。ワシだって来年には十二だ。一人で漁にだって出れんだぞ!」

「じゃ答えて。どっちがいい?」 

 からかわれてるのは儂にもわかった。負けん気はそこそこあったから、口から出まかせを言ってやった。

「どっちだっていいわい!」

「それ、わたしの真似だよ?」

「違うわ!」

 と、言いながら考えた。思えば、どっちだっていい、というのは意外に儂の本心に近かった。

「どっちだって、べつに、悪さとかしなけりゃよ……なれんだろ。と、友だちとか、そういうのによ」


 娘はきょとんとして、くつくつ肩を震わせたとおもったら、しゃがみこんで大笑いしよる。なにがおかしい、とわめいたら「ういうい」と儂をつついて来よる。

「笠の神様すごいなぁ、きみを助けた対価は今のでいいや。そんなの久しぶりに言われたよ」

 目じりをちょっと拭うと、娘は立ち上がり、包丁の刃の部分を持って柄を差し出してきた。

「これ返すね。いいよ。なろう。友だち」

 儂が包丁を受け取ると、娘は満足げに笑った。この時の顔は、百年たった今でもありありと思い出せるな。


 だが娘の名乗りは聞けんかった。

 偽の落雷が声をかき消してしまった。

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