4. なにが説得なものか

 真っ暗闇でなんも見えん。ぼそぼそとした女の声が誰かと話しているようだったが、相手の声は聞こえん。

 悪い夢だと思った。昼間の事も何もかもひっくるめて、悪い夢を見とるんだと。

 女の声が何を言っとったか、よう覚えとらん。居候がどうしたとか、対価がどうしたとか、そんな事を言っていた気がするが、それよりも微かに聞こえるという音が恐ろしくてな、蠅は勘弁、蠅は勘弁とがたがた震えとって、目が覚めたら、おっ母様かさが儂を覗き込んどった。


「気分は!? なんともないかね!?」

 いきなり勢い込んで訊いて来たもんで、怒られとるのかと思ってな。思わず謝ったら「こんの阿呆! 外へ出るなと言うたのに何で出よったかね!?」と今度こそ怒られた。怒られながら、顔といわず体といわずあちこちペタペタと触られて、どうにも気恥ずかしい。

 まだ頭はボケっとしたが、怒られ続けるのもかなわん。もう平気だと答えたらおっ母様かさ

「ほじゃ、起きてまじない師さんにお礼を言いな! 命の恩人だぞ?」

 と急かしてきて、儂は家の隅っこに知らん娘が座っとるのにようやっと気がついた。


 夢ではなかったのだな。


 ぎょっとしたよ。

 服こそ薄手の袖付きを着とったが、生白い肌も、細っこい腕も、あの化け猫とおんなじだった。ねこあたまの代わりに人の頭が乗っかって、見たこともない、浜辺の砂みたいな色の髪をしとってな。

 だが、なによりその目だ。やはり砂浜色なんだが左右で濃さが違う。それが妙に綺麗でな。うん、あれはやはり綺麗な娘さんではあったよ。

 そんなんで呆けて見とったら、またおっ母様かさにどやされた。

 急に倒れて熱で死にかけた儂を、この娘が助けてくれたらしい。

 おっ母様かさは網の繕いで浜小屋へ行ってしまって、儂は娘と二人きりだ。

 礼を言えと言われたものの、どう切り出していいかわからずにいたら、娘が先に口を開いた。

「あの腐った牛は、疫鬼エキって呼ばれてる。病気をばらまく厄介なモノの怪だよ」

 急にそんなこと言われても、へえ、としか言えん。

「逃げるなって言ったのに、逃げるんだもん。わたしの笠をかぶってれば瘴気に当てられることもなかったのに」

 やはり、へえ、としか言えん。それきり儂が何も言わんで居ると

「けっこう痛かったんだよ?」

 と娘は服の袖を捲った。

 左腕に、晒し布が巻かれておった。


「きみは疫鬼エキに近づきすぎた。脚にも切り傷があって、そこに疫蠅エキバエの死骸もくっついてた。だから他の人よりもずうっと病気がひどかったんだよ。助けたのに死なれちゃいやだから、わたしの血を飲ませた。悪く思わないでね」

「ち? ちって、血か?」

 ようやく儂は言葉をしゃべれた。

「血だね。疫鬼エキを喰ったわたしの血は、同じ疫鬼エキの病に勝てるんだよ。見たでしょ? わたしが喰ってるところ」

 当然の事のように娘は言ったが、儂は気分が悪くなった。やっぱりこいつは、あの化け猫ではないか。人のふりをしたモノの怪ではないか。

 胃の中で得体の知れないものがぐるぐる回る感じがした。

 戦わにゃならん。気づいとるのが儂しかおらんのなら、儂がこの家を守らにゃならんと、子供ながらにそう思った。

 土間には刃物があるからな。儂は一足飛びに飛びおりて、包丁をつかみ振り返った。


 板間には誰もおらんかった。


 儂の寝とったと、娘のたびこうに平笠しか見えず、不意に後ろから右腕と左肩を掴まれた。

「猫はいつの間にかいなくなり、どこにでも現れる。なんてね」

 娘の口調は軽かったが、掴まれた腕も肩も、さっぱり動かせやせん。とした娘の体温が感じられてな、汗と冷汗ひやあせとをいっぺんにかかされた。

「これでも、化け猫歴はけっこう長いの。でもやっぱり、そういうことされると少し傷つくんだよね」

 娘の声はちょうど頭のてっぺん辺りでびりびりして、ついで微かにという低い羽音のような音がする。とうとう娘は、羽音と話し始めた。

 こんな感じだな。


「たまには人助けもいいかなって思ったんだけど、残念だよ」

 ぶん、ぶぶん

「でも、わたしと戦おうとしたよ?」

 ぶぶぶん、ぶんぶん。

「うん。わたしもやだよ。せっかく助けたのにまた殺すなんてさ、ばかみたいだもん。やっぱり対価を決めずにまじないなんて使うもんじゃないね」

 ぶーん、ぶぶん、ぶーん。

「え、説得するの? 面倒くさいなぁ」


 それで、化け猫娘が一方的にこんな事を言ったよ。


「じゃあ、今からきみを説得します。手に持った包丁を放っぽって明日も生きるか、今朝には死んでるはずだったから今死ぬか。一度きみを助けたわたしとしては、明日も生きるほうだと嬉しいかな。三つ数えるね。いち、に、」


 放ったわ。なにが説得なものかと今でも思うわ。

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