4. なにが説得なものか
真っ暗闇でなんも見えん。ぼそぼそとした女の声が誰かと話しているようだったが、相手の声は聞こえん。
悪い夢だと思った。昼間の事も何もかもひっくるめて、悪い夢を見とるんだと。
女の声が何を言っとったか、よう覚えとらん。居候がどうしたとか、対価がどうしたとか、そんな事を言っていた気がするが、それよりも微かに聞こえるぶんぶんという音が恐ろしくてな、蠅は勘弁、蠅は勘弁とがたがた震えとって、目が覚めたら、おっ
「気分は!? なんともないかね!?」
いきなり勢い込んで訊いて来たもんで、怒られとるのかと思ってな。思わず謝ったら「こんの阿呆! 外へ出るなと言うたのに何で出よったかね!?」と今度こそ怒られた。怒られながら、顔といわず体といわずあちこちペタペタと触られて、どうにも気恥ずかしい。
まだ頭はボケっとしたが、怒られ続けるのもかなわん。もう平気だと答えたらおっ
「ほじゃ、起きて
と急かしてきて、儂は家の隅っこに知らん娘が座っとるのにようやっと気がついた。
夢ではなかったのだな。
ぎょっとしたよ。
服こそ薄手の袖付きを着とったが、生白い肌も、細っこい腕も、あの化け猫とおんなじだった。
だが、なによりその目だ。やはり砂浜色なんだが左右で濃さが違う。それが妙に綺麗でな。うん、あれはやはり綺麗な娘さんではあったよ。
そんなんで呆けて見とったら、またおっ
急に倒れて熱で死にかけた儂を、この娘が助けてくれたらしい。
おっ
礼を言えと言われたものの、どう切り出していいかわからずにいたら、娘が先に口を開いた。
「あの腐った牛は、
急にそんなこと言われても、へえ、としか言えん。
「逃げるなって言ったのに、逃げるんだもん。わたしの笠をかぶってれば瘴気に当てられることもなかったのに」
やはり、へえ、としか言えん。それきり儂が何も言わんで居ると
「けっこう痛かったんだよ?」
と娘は服の袖を捲った。
左腕に、晒し布が巻かれておった。
「きみは
「ち? ちって、血か?」
ようやく儂は言葉をしゃべれた。
「血だね。
当然の事のように娘は言ったが、儂は気分が悪くなった。やっぱりこいつは、あの化け猫ではないか。人のふりをしたモノの怪ではないか。
胃の中で得体の知れないものがぐるぐる回る感じがした。
戦わにゃならん。気づいとるのが儂しかおらんのなら、儂がこの家を守らにゃならんと、子供ながらにそう思った。
土間には刃物があるからな。儂は一足飛びに飛びおりて、包丁をつかみ振り返った。
板間には誰もおらんかった。
儂の寝とったござと、娘の
「猫はいつの間にかいなくなり、どこにでも現れる。なんてね」
娘の口調は軽かったが、掴まれた腕も肩も、さっぱり動かせやせん。もわっとした娘の体温が感じられてな、汗と
「これでも、化け猫歴はけっこう長いの。でもやっぱり、そういうことされると少し傷つくんだよね」
娘の声はちょうど頭のてっぺん辺りでびりびりして、ついで微かにぶんぶんという低い羽音のような音がする。とうとう娘は、羽音と話し始めた。
こんな感じだな。
「たまには人助けもいいかなって思ったんだけど、残念だよ」
ぶん、ぶぶん
「でも、わたしと戦おうとしたよ?」
ぶぶぶん、ぶんぶん。
「うん。わたしもやだよ。せっかく助けたのにまた殺すなんてさ、ばかみたいだもん。やっぱり対価を決めずに
ぶーん、ぶぶん、ぶーん。
「え、説得するの? 面倒くさいなぁ」
それで、化け猫娘が一方的にこんな事を言ったよ。
「じゃあ、今からきみを説得します。手に持った包丁を放っぽって明日も生きるか、今朝には死んでるはずだったから今死ぬか。一度きみを助けたわたしとしては、明日も生きるほうだと嬉しいかな。三つ数えるね。いち、に、」
放ったわ。なにが説得なものかと今でも思うわ。
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