3. 猫の怪

 あれは胴布イェムというらしいな。胸と腹だけ隠すような大陸の服だ。


 紅い胴布に紺染めの筒袴を着た人型が、なまちろい背中を丸出しにして、細っこい腕をと開いて、牛の骸を押さえ込んどった。腐っても牛だぞ? 信じられん光景だ。

 女の顔は見えん。

 女は頭をな、突っ込んどったんだ。牛の骸の首のあたりに。

 息継ぎするようにそいつが頭をあげて、猫頭の化け物だとわかった。真っ白い、眩しい毛に首から上が覆われとった。どす黒い血だか汁だかに汚れた鼻面も見えた。指先が牛の皮に食い込んで、雑巾みたいにしわくちゃにしとったな。

 つまるところ、猫のが、牛のを喰っとったんだ。

 赤牛の骸もまぁ暴れてな。おかげで儂は今でも蠅の羽音にぞっとするんだが、奴め、蛸がスミ吐くような調子で尻から蠅を吹きおった。

 その蠅が猫の怪の全身を覆って、猫は飛び退いてくるくると悶える。牛の怪は、おかに上がった魚みたいに跳ねて、明後日の方向へ逃げようとする。

 恐ろしいモノが離れて行くんで、儂はそのまま行ってしまえと願ったよ。牛はどっかに行って、猫も蠅にやられてしまえばいいと。

 だが猫は水気を払うように蠅を払い飛ばした。ほどけたのか破れたのか赤い胴布はと落ちて、両のぶさに、乳房が、うむ、乳房をな、露わにしたまま化け猫が何かを叫んだ。おいでませ、とかなんとか、とにかくヒトの言葉だった。


 ほむらがたったよ。


 蠅の群れをなめるように、ばっ! と燃え上がる火だった。その熱波に煽られて、儂はようやく立つこと、走る事を思い出した。

 行くな、と後ろから女の声がしたが、かまわず走った。鉈で切ったのか、着物と脚がちと切れててな。そこに蠅が一匹止まっとって、思わず叩きつぶした。

 虫をつぶしてあんなにおぞましい気分になったのは、後にも先にもない。

 こんな恐ろしい目にあったのは、言いつけを守らんかったからだ。儂が悪かったのだ。一目散に駆けて駆けて、家に戻って、おっ父様とさの拳骨をくった。力のない拳骨でな。その力の無さが無性に悲しくて、心細くて、儂は大泣きした。

 手も脚も震えが止まらんくて、頭がぐわんぐわんして、あとから聞いた話なのだが、大泣きしながら儂は倒れたらしい。

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