第8話 「夏帆とマーガレット」(2)
開けた先には、私の想像通りのマーガレットがいた。
汚れのない白い制服に、黒く綺麗に伸びた髪。
白い肌とのコントラストがその人物の儚げな美しさを映し出している。
マーガレットは窓の外、陽がゆっくりと落ちていく様を、椅子に座りながらただじっと眺めていた。
「あ、あの……!」
私は震える口で、窓の外を見つめるマーガレットに声をかける。
彼女はゆっくりと私の方へと振り向いた。
「珍しいですね。こんなところに人が来るなんて」
その口調は優しくも、どこか氷のような冷たさを感じた。
私はその一声にたじろいだが、その場から逃げることはしなかった。
なぜ、いま私はこの美術室に来たのだろうかと、ふと、そんなことが頭を過る。
その理由を考えてみれば、あまりにも不明瞭で、曖昧であって、何が言いたいかというと、「直感」というにわかに信じがたいものを私は信じてしまった。
「あなたは……なんでこの時間に美術室に……?」
ごもごもとしながらも、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
どうも私の悪い癖で、人に恐縮するとすぐに十分すぎるほど丁寧な敬語を発してしまう。
1秒、2秒、3秒。
どんどんと不安なほどに間が空いていく。
私は今までの人生の中で、これほどまでに1秒を長く感じたことはなく、これほどまでに1秒ごとのコマの中に不安という泥が蓄積していく感覚は初めての経験であった。
「夕焼けが好きなのよ」
マーガレットは遠くを見つめ答えた。
「夕焼けが……好きなんですか……」
「あなたはあの夕焼けが何色に見える?」
唐突な質問に少し戸惑う。
「赤……ですね」
私は、自信なさげに答えた。
「正解よ。それが普通なのよ。夕焼けは赤であって、それ以外の何色でもないの」
私はマーガレットの言葉の意味を理解することができなかった。
当たり前のことを言っているはずなのに、どこか違和感を覚え、それが喉に突っかかる。
ふと、私は一歩横へと足を広げた。
先ほどからマーガレットの体が動くたびに見え隠れしている、奥に立てられているこげ茶色のイーゼルが気になるためだ。
「見たい?」
あからさまな行動すぎたせいか、マーガレットはそんな私の姿に苦笑しながら、体を横にずらし、描いていた絵を見せてくれた。
少し気恥ずかしかったが、その絵を見た途端、そんな恥ずかしさもどこかへと消えていった。
キャンバスには今まさに地平線から消えかかる夕焼けが白黒で描かれていた。
それはあまりにも、細かく風景描写されていて、幾重にも影が塗り重ねられている。
「あなたはこの夕焼けが何色に見える?」
私は無意識にその絵を見て、「赤」と答えていた。
「不思議でしょ?あなたは今まさに落ちようとしている本来の夕焼けを見て、「赤」と言った。だけど、あなたはこの白黒の夕焼けを見ても「赤」と言ったわ。それならどちらが本当の「赤」なのかしら」
「それは……どういうこと?」
その言葉の矛盾は、いかに人間に色が見えていないかを問いかけるようなものであった。
マーガレットの言葉の弱点を突くとすれば、「それは見る順番による錯覚」と言えなくもない。
先ほどは、夕焼けの景色を見てから、白黒の風景画を見たために、最初に見た「赤」がそれに目に残っていたのだと考えられる。
では、白黒の風景画を見た後に、夕焼けを見たら私は何と答えていただろうか。
その答えは「オレンジ」だったかもしれないし、「白」だったかもしれないし、「黄色」だったかもしれない。
「いい?あなたにはあの夕焼けが「赤」に見えているだろうけど、私には赤には見えていない。「白」だったり、「黄色」だったり、「緑」だったり色んな色合いが混ざり合って見えているの」
私は固唾を飲んで、その言葉に聞き入る。
「世界の色彩は、それほど美しくはないものよ」
マーガレットは、虚ろ気な眼差しで、だけど明確な口調で、そう答えた。
私にはあの輝きながら落ちていく夕焼けは、この世の中でも指折りの美しさがあると思っているために、その言葉に不快感を少し覚えた。
彼女は続けて、「夕焼けというのは私たちが視ている「赤」ではなく、水の上に浮かんだ油のように、何色も入り混じって見えている」のだと言った。
さきほどまで、少し彼女の言葉に不快感を覚えていたが、確かに私がその光景を見ても、美しいなんて言葉は出てこないだろうとその不快感が和らいでいった。
「全てが……そう視えているの?」
「そうよ。すべての色が繊細に見えているの。確かに絵描きにとってはそれは思ってもいないほど嬉しいことかもしれないけれども、私にとってはある意味の呪いなのかな」
「呪い……」
「だけどその呪いのおかげで、本当の色も知ることができたのよ」
マーガレットは白黒でキャンバスの絵を撫でる。
その目は微笑み、なにか巣の中で守られる雛のような目をしていた。
「白と黒。この2色には無限の色があるの」
「……無限?」
「さっきあなたはこの「黒」を「赤」と言ったわ。じゃあ、私がこのキャンバスに白と黒で海を描いたらあなたはなんて答える?」
「見てみないとわからないけど……」
「青……きっとあなたはそう答えているわ。私にはあなたの言う青には視えていないけれども、あなたの理想の青を表現できる。これって素晴らしいことじゃない?」
「そう……なのかな」
私は、ずっと上手くなりたい上手くなりたいと、ひたすら絵を描き続けてきた。
彼女の言葉は、そんな藻掻いている私に、一筋の光をもたらしてくれた。
「上手いだけが全てではないのよ。あなたも絵を描くの?」
「えぇ……まぁ……まだ始めたばっかりですけど」
「それなら知ってるといいわ。いい、決して色に囚われてはいけないよ」
私は、その言葉に無言で頷いた。
今はその意味が、正直なところあまりわかってはいない。
今思えば、その悩みは理解されない彼女から出た、唯一の本音だったのだと思う。
私とマーガレットは美術室で落ち行く夕日を見ながら、その美しさにただ静かに佇んでいた。
Palette『色彩の霧』 静 霧一 @kiriitishizuka
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