第7話 「夏帆とマーガレット」(1)

 

 私の通っている高校で、とある噂が流れていた。


 その噂というのが「美術室には幽霊がいる」という、甚だ信じてよいものかと疑うようなちんけな噂ではあったが、私はなぜかそれが頭から離れることはなかった。


 そもそもなぜこんな噂が流れ始めたのかを私なりに調べてみたところ、どうも放課後にいつも同じ位置に制服を着た少女が微動だにせずに毎日のように座っている姿が目撃されていたからであった。


 どうもその話は下級生、つまり今年入った高校一年生から浮き出た話であって、それが噂に噂を呼び、学校で微かに話される怪談のように囁かれていた。

 だが、所詮は思い込みによる妄想で、いずれ風化していく噂だと私は分かっている。


 美術室の幽霊と揶揄された少女は、上級生の間では"マーガレット"と呼ばれていた。


 美しい花に例えられてはいるが、実際は皆から愛でられているわけでもなく、好かれているわけでもない。

 毎日夕焼けを眺め、その髪がオレンジに染まっていく様子がまるでマーガレットのようだという理由らしい。


 マーガレットは私の同学年ではあるが、違うクラスの少女だった。

 私は彼女とは一度も話したことはなく、名前も知らない。


 知らなかったというには語弊があるかもしれないが、以前聞いた名前がマーガレットというニックネームに押しつぶされ、そのインパクトからか本名を思い出せないでいた。


 5月に入り、ちょうど4月の出会いの喧噪も落ち着いてきたころ、私はふいにあの絵のことを思い出した。

 白黒の"Maria"に惹かれ、凛にバカにされながらも、今年は選択教科を美術にしている。


 特にこの授業は受験に関係あるとか、成績が取りやすいとかそういうわけではなく、ただただ、絵がどのようにして描かれるのかを知りたいという探求心だけが私の好奇心を揺り動かしていた。


 選択教科は5月から開始した。

 オリエンテーションなどはなく、いきなり実技から入るものだから、絵心のない私は少し戸惑いながらも一生懸命授業に取り組んだ。


 最初の授業は木炭を使った、石膏像のデッサン。

 指先が黒く汚れながらも、何度も色を重ねてはぼかし、重ねてはぼかしを繰り返し、陰陽をつけながら立体を出していく。


 どうも私にはマシな絵心があったようで、皆の出来上がった絵よりも少しだけ出来栄えは良かったものの、素人にしてはというレベルであって、私が感動した絵には遥か遠く及びもしないものであった。


 私はこの授業が始まる前、2年前の11月に展覧会に行ってからというもの、その日を境に、様々な絵の描き方教本を買い漁り、スケッチノートにとにかく身近な物や風景画を何枚も何枚も描いてはいる。


 だが芸術という分野はそう簡単に上達するわけでもなく、私の行っているのは写実であって、どうもオリジナリティというのは一向に芽を出すことはなかった。


 絵を始めて数か月という時点で、オリジナリティという言葉を出すこと自体おこがましいのかもしれないが、素人というのはどうも憧れに生き急いででも近づきたいという焦燥の病に罹患するようで、私のその罹患者の一人になっていた。


 ほどなくした学校の放課後。

 私の頭からマーガレットという単語がちょうど消えかかっていた六月のことであった。

 特に部活動に所属していない私は、今日も家でデッサンに励もうと授業が終わるとせっせと帰り支度をして帰路についていた。


 途中、何気なく近くの公園に立ち寄り、スケッチをしようかと思い、ベンチに座り込んだ。

 がちゃがちゃとカバンの中身を漁ったが、どうも私はスケッチに必要な筆記用具をそのまま学校に忘れてきたみたいで、「あっ……」という言葉とともにその場で落胆した。


 無いものはいくら探してもないわけで、私は自転車で15分ほどの距離をゆっくりとしたペースで漕ぎながら戻った。

 学校に戻り、自身の教室のある2階まで上がっていくと、そこには空になった教室だけが立ち並んでいた。


 あまり放課後の誰もいない教室に立ち寄らないものだから、私にとってはいつも騒がしい教室が静寂に包まれているという状況にステップを踏みながら少しばかり踊っても見たい気分になったが、誰かに見られては一生の恥になりかねないとその気持ちを抑え、そそくさと自身の机の中から筆記用具を見つけ出し、カバンの中へと詰め込んだ。


 ふと窓のカーテンレースを広げ、校庭を見下ろすと、サッカー部や陸上部が汗を流しながら部活動に励んでいる。

 その姿にカッコいいなと思ってはいたが、如何せんあの大声でハキハキとした体育会系の雰囲気は私には馴染まない。


 遠くから眺めるぐらいがちょうどいいのだ。

 そんなことを思いながらぼんやりとしていると、外では町内の5時を知らせる時報が流れ、「故郷」のメロディーが聞こえてきた。


 ちょうど夕焼けが差し込み、教室内が真っ赤に染まった。

 私はその赤を見ると、はっと美術室のことを思い出した。


 今ならまだいるだろうか。

 私は急いでその教室から駆け出すと、3階の隅にある美術室へと走り出した。


 ものの2分ほどで美術室の前には到着したが、その扉を開けるのに少し緊張する。

 先ほどまで、どうしても会いたいという気持ちが昂ってはいたが、いざ扉の前に立つと、好奇心の表裏にある恐怖心がせせりあがり、私の手を震わせるのであった。


 私はそんな恐怖心に負けてたまるかと、引き戸の取ってを指でつかみ、ガラリとその扉を開けた。

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