第6話 「東条 麻衣」(2)


 そうして私は幼き日から居場所を探し始め、いつしか16歳となり、当たり障りなく高校へと進学した。


 高校に入学してからというもの、私の居場所は高校の美術室となっていた。


 美術部としての活動もそうだが、本気で美術活動をしている人などこの学校にはおらず、結局放課後の遅くまでこの美術室に残っているのは私一人だけとなっている。

 石膏と油絵具の香りが、私にとってはアロマのような癒しを与え、穏やかな時間を私にくれた。


 時に、この美術室で春夏秋冬の夕焼けを見ては、その夜と昼をつくった神の生誕のような美しさに焦がれ、その陽が落ち切った後にこの美術室を後にしている。


 そして、私の一番嫌いなものは、学校から家へのこの帰り道であった。

 一歩一歩進むたびに、鬱屈な自分の心が漏れ出し、私の足取りを重くする。


 そして家に着くころには、私の眼は一切の色を映さず、ただモノクロな風景が映っていた。

 父も母も絵のことはからきしで、私の絵を見ては上っ面に上手いねとしか言うことはなかった。


「上手だね」とか「才能あるね」とか、そんな吐き捨てるほど聞いた耳は、もうその言葉に質量を感じることはなくなった。

 母は、私が絵に没頭している姿を見ると、ちゃんと勉強をしなさいだとか部屋を片付けなさいだとかまるで耳元を飛び交う小蠅のように、耳障りなほど言ってくる。


 結局は、母が良く言う絵を上手いというのは、それは趣味の範疇という理解であって、これから来るであろう社会への適合への強制を強いるところをみると、甚だそれに尊敬の念を感じることはなかった。


 家の空気に馴染めないのはそのせいなのかも知れないと、もう一人の脆弱な私が耳元で囁くが、自分を押し殺し、その空気を吸えば吸うほど、私の色彩の眼は曇っていくのがわかった。


 私は家を居心地の良い場所などとは到底思えず、毎日のように学校の美術室を思い浮かべては、小さな自室で蹲っていた。

 いつか、私は鎌倉の浜辺の近くで海を眺めながら、自分だけの美術室が欲しいと夢見ていた。


 私はそんなことを考えながらも、時は刻刻と進んでいき、いつしか私は高校二年生へと進級し、季節は初夏を迎えた。

 学校の中間テストが終わり、夏休みまで残り一週間を切った教室は、外の蒸し暑さと合間るように、鬱陶しいほどに暑さを帯びている。


 私以外の他の生徒は、やれ海に行くだ旅行にいくだ実家に帰るだと、夏休みの訪れに胸を躍らせながら待ち望んでいるが、私だけはその中で冷め切った気持ちでいた。

 なんせ、夏休み中は美術室は使えず、私はあの居心地の悪い家に引きこもらなければならないからだ。

 唯一、自分の部屋とは別に、物置を改造した窓のない画室があることが救いであった。


 私は4時限目の授業を話半分で聞きながら、手帳のスケジュールを確認する。

 どこまでも空白なマスが続き、それが11月に到達したころ、ポツリと一つだけマスの埋まったページに目が止まった。


 そこには『絵画コンクール展示日』とだけ記載されていた。

 忘れていたわけではないが、頭の片隅のどこかに転がしていたのは事実であった。

 あまり気乗りではないが、通っている絵画教室の先生の協力もある手前、絵を仕上げなければいけない。


 私はぼそりと、「絵、描かなきゃな」と教室の窓の外に広がる澄んだ青い空へと呟いた。

 そんな夏空に浮かぶ大きな積乱雲を遠目で見つめ、私はそのやんわりとした形を宙で指をなぞっていた。


 ◆


 夏休みに入り、私はぽうとオレンジ色の電球が光る仄暗い画室の椅子に座り込んでいた。

 イーゼルに乗せられた画用紙は白紙のままで、私はそれを何も考えず、ただ眺めている。


 私はずっと疑問でいた。

 絵画教室では、水彩画と油彩画を主に描いていたが、どうも生み出せる色には限界があって、私は物足りなくなっていた。


 私の瞳に映る色を、真っ白なキャンバスに描き切れないことは、私にとって苦痛でしかなかった。


 色は有限でありながらも、私には無限の色が映っている。

 何百枚と描いてきた絵は、そのすべてが未完成の作品なのだ。


 いくつかはコンクールで賞を貰ったり、公募展示されたりと、世に出て評価をされているがどうも私は腑に落ちずにいた。


 そんな完成への渇きが私の創作意欲を蒸発させていく。

 もう私には、真っ白なキャンバスに色彩を描く気力など残ってはいなかった。


 ふと、床に転がっている中途半端に芯が削られた硬筆が目に入った。

 そういえば最近は絵具ばかりで、長らく鉛筆画などは描いていない。


 大概はシャープペンシルで軽く下書きをしたり、ノートに落書きほどのスケッチを描いたりはしているが、それはそれであって、決して絵を描くと呼べるほど代物でもない。

 どうも絵画教室に通うと、皆が水彩画だの油彩画だのと目立つものばかりを描くものだから、私もそれにつられ、不完全燃焼ながらも筆ばかりを握ってしまっていた。


 私は少し埃をかぶった硬筆を拾い上げ、画用紙に一直線の線を引いた。

 黒という色は、その希釈度によって無限の濃淡を出すことができる。


 絵具では難しかったことが、この硬筆一本で、自在に無限の黒を生み出せることに感動を覚え、私は白い画用紙に力の強弱をつけながら、思いのままに絵を描いていく。


 それはまるで私にとって虹のような光景であった。

 こんなにも身近に私の色彩は転がっていたのかと思うと、私自身が今まで自分の悩みを正当化しながらも可能性を探さずに、子供のようにただ茫然としていたことが悔しくてたまらなかった。


 絵画コンクールのテーマなどは特に決まっておらず、特に使う絵具などに指定はない。

 私はこの硬筆一本で色彩を描こうと思い立ち、その持ち手を強く握る。

 そうして、絵の構図を考えるために、腰を下ろした椅子の上で目を瞑り、私は深い意識の中へ身を沈めていった。


 黒という無限の色彩を得た私は、深い深い意識の中に一筋の光を見出した。

 この一筋の光をいかにして具現化していこうかと、私は自分の意識の深海を回遊する。

 私は今まで、目で視た風景だけをひたすらと描き続けたが、自分の心情を描いたことは一度たりともなかった。


 表現方法がなかったわけではないが、現実の風景の鮮やかさとは反対に、寂しさというフィルターがかかってしまった心情はモノクロにしか映っていなかったために、自分でそれを美しいとは思えていなかったために、今まで描くことが出来なかったのだ。


 その心情のフィルターの一点から差し込んだ一筋の光からは、心の色彩が温かな光となって漏れこんでいる。

 私はその光に向かって両手を組み握り、意識を飛ばす。


 きっと世界の隔たりを受け入れ、寂しさを愛するようになった時、このモノクロのフィルターが消えてなくなることを想いながら、形なき神に祈りを捧げた。


 ふと、手に持った硬筆が床にコトンと落ち、その音に私は意識の深海から引っ張り上げられるようにして、目を開けた。


 私はその落ちた硬筆を拾い上げ、何かに憑りつかれるようにして、仄暗い画室で白いキャンバスに色鮮やかなモノクロを描き始めた。

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