まぼろし

「夏帆さん。バチなんか信じていらっしゃるの。でもどんなバチかしら。あなたは自傷が罪だと思われているのでしょうが、ならば私達は。死にたいなんて思わなかったわ。死の間際まで、いつも通り生きていた。もちろんこれから先だってそうするつもりだったのです。なのに今こうしてあなたと一緒にいる。これが与えられた罰ならば、皆の罪は同じものの筈。それとも、同じなのは神様の勘違いのせいなのかしら」


 冷たい女だ。夏帆は思う。今までろくに話したことはなかったから気付かなかったが、この女の言葉は氷のようだ。言いたいことをずけずけと言う。きっとこのうだつの上がらない医師は尻に敷かれているに違いない。


「私には分かりません。でもやはりきっと同じ罪なのだわ。神様は一人一人を見ているのではないのよ。同じ選択をしたから、同じ罪を与えられるのね。その選択に、個人の意思など一つもなくとも」


 窓際に立ったままだった医師は、今度は診察室の扉を開けた。するとそこは、今度は真っ赤に燃える世界だった。


「すごいわ。これが地獄の猛火と言うものかしら」


 黒い雨を見た時よりは落ち着いて夏帆は笑った。


「あの中に飛び込んでみたいと思いませんか」


 医師は静かに問う。目の前に燃え盛る炎に照らされ、眼鏡に写るのはその赤だけだったが、夏帆はそこに一瞬だけ天上に向けて光が走ったのに気付いた。思わず、医師から目を外し炎の中を見つめる。しかし、それはもう見えなかった。


「今のは『希望』ですよ。それを持つ人はね、この猛火に焼かれても必ず生まれ変わることが出来るんです」


「希望を持ってさえいれば、やり直せるということ……」


 俄かに鼓動が激しくなった。ああ私は興奮しているのだ。夏帆はそんな自分を笑った。あんなに死にたかったのは何故。いえ、さっきも言ったわ。私は死にたくなどなかった。逃げたかっただけなのです。


 この狭い世界から。

 この暗い世界から。

 私を傷付けるあの人達から。


 私が悪かったのかしら。それとも彼が。友人が。肉親が。他人が。無関心が。お節介が。上辺が。偽善が。愛が。

 

 憎くて憎くて仕方ない。おお、この浅ましい自分が……!


 医師が止める間もなく、夏帆は身を投げていた。「希望」が自分の中にあるのかなど分からない。けれど、たといなくても構わないと思った。


 このまま炎に飲み込まれてしまえ。そして私は「無」になるのだ。


 無くなってしまえ。この愚かな私も、私を拒絶する者も、家も、世界も、そう世界も何もかも、何もかも!









 医師は黙って見ているだけだった。奥方はやんわりと笑ったかと思うと、その医師の背を突き飛ばした。


「あ」


 小さな声を残して、しかし医師は抵抗することもなく猛火に身を委ねた。眼鏡が外れて、小さく落ちくぼんだ目が奥方を見ていた。奥方はまた笑った。


「死にたくなかったなんて嘘よ。あなたと死にたかったの。捨てたはずの者のことで、いつまでもグジグジと悩むあなたと一緒に。自傷は罪ではない。同じ選択をしたことが罪なのよ私達」


 そうして、彼女も身を投げた。途端、彼等のいた診療所は跡形もなく消え、世界は炎に包まれた。






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