瑕疵
麻城すず
ゆめ
「あなたは何故そんなことをしたのですか?」
薄いカーテンは夏の西日を遮り切れず、無機質な白い部屋はオレンジ色に包まれていた。簡素なパイプベッド。脇に事務机が置いてあって、そこにコツコツとボールペンを落とす白衣の男を見ながら、夏帆はひとつ溜め息を落とす。
「さあ、覚えておりません。でも何かに絶望したのでしょうね。こんなことをしたのですもの」
包帯の巻かれた手首が引きつれるように感じ、そこを2、3度擦ってみる。すると感じていた違和感は何かに融けたように消えていき、夏帆はそれに安心してまた溜め息をつく。
「今さら、そんな問答に意味がない事は先生もご存じでしょうに」
サイズがあっていないのか、しきりにずり落ちる眼鏡の位置を気にしながら、白衣の男は妻の運んで来た渋茶を夏帆に勧めた。診療所の待合室に順番を待つ患者はおらず、それはいつものことだったので医師はのんびりとしたものだった。
「では質問を変えましょうか。絶望とは人が生きていく上で幾度となく囚われるであろう幻想だとは思いませんか。事実絶望が幾度人を襲おうとも、それを乗り越える術はあるからこそ人は皆生き続けることが出来るのです。囚われ苛まれるのはほんの一時なのですから」
奥方はベッドに軽く腰掛け、黙ったまま、ただ手に持つ茶碗に目を落としている。こんな冴えない男によく嫁ぐ気になったななどと、その臥せられた目を隠すように生え揃う長い睫毛を見ながら夏帆はぼんやり考える。その白い肌がスクリーンのように美しく日の光を反射していたのを眺めながら。
そのうち、答えない夏帆に諦めたのか
「もうやめませんか」
医師はそう言って立ち上がった。奥方は並外れて美しいが、この男は凡庸な風体で、まるっきり良いところがない。少なくとも夏帆にはそう見える。
「あなたは死にたくないのですよ。ええ、決してね。だから無駄な事などおやめなさい。同じ事を繰り返すのは愚かなことです」
「おろか」
確かめるようにその言葉だけを繰り返し、夏帆は笑った。
「愚かな私に飽きもせず同じ事を言い続ける先生はどうでしょう。愚鈍な者は一生愚鈍なままなのに。ああ、もったいないこと。先生の時間も、私の時間も。それから奥様の時間もね」
「夏帆さん、私達にはもう時間など関係ない事はご存じでしょう。窓の外をご覧なさい。あなたは覚えていないのですか」
黙っていた奥方が口を開き、窓を開けた。夏帆はそこに広がる風景に息を止める。先程まで、外からは確かにオレンジ色の光が差し込んでいたのに。
窓の外は真っ黒だった。空は灰色の雲に覆われて、降り続く雨も汚ならしい黒。手を出して触れようとして、そして慌てて引っ込める。
もう何度目になるだろう、ここに来るのは。この風景を見るのは。
「……先生は、どうしていつもここにいらっしゃるのです」
鈍く痛み出した頭に手を添えて、夏帆は小さく問い質す。
「さあてね。私がそれを知るのなら、あなたも理由をご存じでしょう」
「私は……、私は死にたかったのです。傷をつけた分だけ私は皆に疎まれる。分かっていても止められなかったのは、たとい上辺だけでも、私を気にしてくれる事が分かっていたから。きっと死ねばもっと気にしてくれるだろうと。そう、私はやはり愚かなの」
「それで」
医師は奥方の脇に立ち、開け放たれた窓を締める。ガタガタとガラスが揺れる音。そしてまた部屋はオレンジの光で満たされる。
「あなたは満足ですか。皆死にました。あなたの父上も母上もご兄弟も親戚もご友人も好きな方も、そしてあなた自身も」
「先生も、奥様も皆、ね」
くすりと笑い夏帆は立ち上がる。
「先生、私本当は死にたくなんかなかったんだわ。真似事をして楽しんでいただけ。今なら分かるのです。でも、実際死んでから分かるなんて皮肉だわ。こうして何もない世界を彷徨うなんて、これはバチがあたったと言うことかしら」
ふいに奥方が笑い出す。ころころと鈴を転がすように。しかし高い声ではない。土鈴のような、少しくぐもったような声で。それを聞くと夏帆の頭は何故か痛みを増してくる。
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