第3話

 それからというもの、僕は毎日洞窟へ足を運ぶようになった。しかし彼女は姿を現さなかった。


──あれは幻だったのだろうか。


 頭に時々そんな考えがよぎったが、置き去りになったハープは確かに湖の中心の岩の上にある。それを見るだけで安心した。

 そして今日も洞窟を訪れた僕は、もう一度あの美しい音色を聴きたい。そう思って幻の人魚が奏でた曲を口ずさんだ。


『そこに誰か居るの?』


 期待せずに来た洞窟で、不意に僕の耳に飛び込んだ二度目のあの声。僕は慌てて口を閉ざした。岩陰に隠れて口に手を当てたまま、そっと湖を覗いた。

 ハープの隣に腰掛けるあの人魚の姿がある。


『あら、ハミングが消えてしまったわ。まだそこに居るのかしら?』


 人魚は湖に潜り、顔だけ水面から出した。徐々に近付いて来る彼女に、僕は見られまいと覗くのを止めて、岩陰に完全に隠れた。


『ねぇ、そこに居るんでしょう? 私はこれ以上先には進めないの。確かめる術が私にはないから、どうかあなたから顔を見せてくれない?』


 どうやら人魚からはちゃんと死角の位置にいるようだ。

 僕は臆病者だ。散々彼女を見ているのに、僕は彼女に姿を見せない。幻想という名の壁を、臆病な僕は越えられなかった。


 人魚は僕の存在にうっすら気付いたものの、返答がない限り確かめようがないと諦めた。彼女は肩を落としたまま中心の岩まで戻り、落ち込んだ様子でハープを奏で始めた。


「……」


 僕がついさっきまで口遊んでいたあの曲を、僕が数日恋焦がれたあの音を、彼女は今奏でている。

 その場で目を瞑り、全身でハープの音色を噛み締めると、僕の心はあの浜辺にいたときよりも癒された気がした。


 今日は最初から最後まで聴くことができた。余韻を残して止まったハープの音色に、僕はそっと目を開いた。

 最後に彼女を一目見ようとこっそり覗くと、あろうことか彼女はまた湖に潜って顔だけ出して近付いてきた。僕はまた慌てて顔を引っ込めた。

 癒されてはいるが、ある意味心臓に悪い。


『まだそこに居るのかな? あの、聴いてくれてありがとう。顔も名前も知らない誰かさん。私の名前はエルザ。覚えていて欲しいな』


 鈴のような声が僕に話し掛けてくる。彼女の声が洞窟に反響しても、僕が返答することはなかった。独り言にして申し訳ないと内心思いつつ、僕は彼女が帰るまでじっと岩陰に隠れていた。


『はぁ……。なにか姿を見せられない事情があるのね? いつかあなたの声や顔を知りたいわ。さようなら』


 彼女が言い終わって直ぐに水が弾ける音がした。あぁ、今日もまた湖の底へ消えて行ってしまった。

 静まり返った洞窟に、水滴の音だけが反響する。僕は耳に残るハープの音が消えないように、音を立てないように細心の注意を払って洞窟を後にした。


「エルザ、か」


 洞窟を出たところで人魚の名前を呟いた。

 君の願い通り覚えておくよ、僕の命尽きない限り──。

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