ムジナ坂

@muuko

ムジナ坂

 夏の道を、少女が駆ける。


 弾けるように駆けてゆく。

スカートをひるがえす少女の額には濡れた前髪がはりつき、つう、と汗がひとすじ流れる。随分苦しそうな顔つきだが、少女は決して足を止めようとしない。辺りには昼間の熱の残りがむわんと漂う。映る木影は柔らかく揺れていた。


 少女の行く道の先に、鬱蒼とした林のトンネルがあった。『ムジナ坂』と呼ばれるその坂の急な石段は薄黒く変色していて、この季節でも落ち葉がつもっている。石段は、ただそこに在るだけでこの地の歴史を物語っているようだった。


 とん、とん、とん。


 リズミカルに石段を跳ねて、そこで少女は力尽きた。駆け上がろうとする数段先には若い男が待っていた。彼は目の前でくずれ落ちる少女の元へ急ぎ駆け寄る。


「せんせ、い」

「喋らないで」


 スロープの前に膝をつき、肩で息をする少女の背を、先生と呼ばれた男が何度もさする。


「ごめ、なさぃ」


 胸を押さえた少女の口からひゅうひゅうと音が漏れる。先生は慣れた手つきで少女の鞄から吸入器を出してキャップを外し、少女の口にあてがった。少女は先生の手にすがる形で吸入器を受け取り、そのまま石段に座り込んですうはぁと深く肩で息をする。先生も隣に腰掛け、少女の呼吸が整うまでゆっくりと背中をさすり続けた。


「……はけの道から走ってきましたね。全くもう」


「……先生に」


 広い肩に頭を寄せて、少女は絞り出すようにささやいた。


「はやく、追いつきたくて」


 先生は一つこほんと咳払いをして、視線を上げた。少女はしばらく先生を見つめていたが、やがて同じ方に目をやる。坂の下を自転車が行くのが見えるが、生茂る木々で車輪の通るのしか見えない。葉は風に撫でられて、のびのびと揺れていた。

「そろそろ動けますか?」と問われて、少女は先生の肩から頭を離した。さらに、「もう行かないと、約束の時間に遅れてしまいますので」と続けられて力なく俯いた。その後少女は「はい」と答え、自分の足で立ち上がった。


 先生は、少女に手を差し出した。ためらいがちにそっとのせた少女の手は、力強く握られた。


 とん、とん、とん。


 石段を上がる。先生が前を行き、手を引かれるようにして少女もついていく。先生の足はゆっくりで、少女はその歩調に合わせて数步後ろの距離を保ったまま、歩いた。


 木漏れ日が揺れて、2人の顔にまだらに影を落とした。少女は俯き、先生は眩しそうに目を細めた。

 坂の上で、先生はくるりと振り返る。遅れて階段を上りきった少女の手を離さずに。


「では、生徒さんのお宅に行ってきますね。あなたの家へは20時からの約束ですからね。では、また後で。ユキ」


 たっぷりと見つめた後、先生は少女を置いて先を急いだ。


 その背中を小さくなるまで見届けて、少女は自分の左手を見た。確かめるように胸の前で手を握っては開いた。最後に、ぐっと拳に力を入れる。


 空の色が変わり始めていた。橙、ピンク、少しの紫の奥から空の端に茜色が広がってゆく。


 顔を上げた少女の頬に西日があたる。そして続く道をひとり、ゆっくりと歩いて行った。

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