第参夜 おじさんの傘

 未練がましい長梅雨の余韻を残して七月が終わったかと思いきや、既に八月もお盆に差し掛かろうとしている。ただ、先月はあれほど待ち侘びていたはずのお天道様の顔は今や面と向かわぬだに暑苦しきに過ぎ、梅雨の終わりと前後して始まった話題のドラマでこれでもかと繰り広げられる俳優達の、これまた暑苦しい……否、迫真の「顔芸」によもや張り合おうとでもしているのだろうか、と思えて笑うしかない。

 そんな炎天の昼日中、例年以上に先月は酷使する羽目になった雨傘を暫し息ませるための手入れをしながら、ふと小学校一年生の時に国語の教科書で読んだ「おじさんのかさ」(※)のことを思い出した。

 当時の私は、作中に登場する「おじさん」が持つ、黒くステッキのように細長い傘に無性に惹かれていた。そして自分が使っているオレンジ色の短い学童傘、しかも使い続けているうちに畳んだ時の小間の折目がずれてくるものだから、ネームで結わえるといよいよニッカポッカのようにダブついてくる傘と「おじさん」の傘とを較べて失望を重ねたものだった。思えば傘に対する拘りはこの時期から萌した、というより、この「おじさんのかさ」を読んだ所為で萌したのかも知れず、それはそれで面白い。

 それより時経て大学生の時分。好んで読んでいたある作家が「傘の自由化」なるものを提唱していて、それは公共の場に何時でも誰でも自由に使える傘が備えられ、かつ使い終わったら何処ででも「使い捨て」という名の返却ができ、そして必要とされる時にまた別の誰かに使われる、といういわば公共財となればさぞかし便利だろうというもの(だったはず)なのだけれど、一瞬魅力を感じつつも私は「しかしそれでは自分の傘を差す楽しみがなくなってしまう」と、誰に表明したわけではないものの賛同できなかった。それ程、傘に一方ならぬ思いというか執着を、幼時にせよ、学生時分にせよ変わらず、そして未だに持っているように思われる。

 そんな私が今使っているのは、かつて憧れた「おじさん」のそれとは異なり、藍色でシャフトと骨が黒、その骨が二十四本あるため畳んで結わえてもドン・キホーテが持つランスのようで、傘にしては少し太めの、黒革の持ち手に滑り止めを兼ねた深紅か灰色のタッセル(=飾り房)を巻いた傘、そして少しく品のないことを承知でいえば、タッセルも含めてそれなりに値が張る、そういった傘を差している。好みの色や形状であることとともに、実はこの「値が張る」という点は購入前にある程度重視していて、その故何となれば、それは「お金」の力を利用して「置き忘れ」を防ぐ効果を期待したからに他ならない。この目論見は奏功し、今の今まで何処にも置き忘れたことはない(なるほど現金なものだ……違う、傘への愛情だ!)。また「値が張る」に相応しく丈夫なので、折れたり穴が開いたりすることもなく、雨の日の私の視界の上半分をもう十年近くも変わらずに同じ色に染めてくれている。これが大変に心地良く、何より落ち着く。

 ついでにいえば、傘に纏わる受難の一つである「盗難」の抑止効果も「値が張る」傘は持っているような気がしてならない。抑も傘が盗まれたり取り違えられたりする要因は、その傘が概ね「無個性である(から見紛いやすい)こと」「安い(と思われる)傘である(から盗んでも罪悪感が生じづらいであろう)こと」の二点に集約されるのではなかろうか。であれば、その点、ビニール傘は透明であることに象徴的であるように無個性だから誰にでも順応してくれ、誰が持とうと違和感がないし、何より安く容易に買い求めることが出来る。黒や紺の蝙蝠傘もあるいは然り。無個性で安価な傘だからこそ取り違えられ易いし、盗まれ易いのは道理だろう。だからもし万が一、今や己とて「おじさん」たる私が使っている、大好きな「値の張る」藍色の傘がそれでも盗まれたとしたら、私はそのことに気落ちする以上に、盗んで行ったその人の度胸を称揚し、傘と静かな心持ちでお別れできるような気すらしてならない。もう愛傘は使えないけれど、雨晴れたり、天晴れたり、あっぱれなり、と……。

 ただ、私がそうして傘を諦めるであろう理由として考えられるものが実はもう一つあって、こちらのほうが厄介かも知れない。それは、以前、ビニール傘の取り違えに端を発し、恐らく見ず知らずの人同士が烈しく口論する場面に出会した時のこと、私はこの数百円程の傘に「いい大人」が口角泡を飛ばして罵り合うに相応しい価値があるのだろうかと考えて悲しくなったことがあり、もし自分が同じ境遇に立たされたら、私は傘を取り違えられたり盗まれたりする不利益よりも、そのことで口論になるリスクのほうをこそ回避するためにきっと黙っているに相違ない、とそう思ったことだったりする。これは自分でもつくづく損な行動文法だなと思うし、ビニール傘ならばまだしも、仮に自分にとっての「大切なもの」が盗まれそうな事態に当面して、これを守るための口論を厭わないという気概と行動とを、私はそのいざという時に持ち、取り得るか、持たず取らずに素知らぬ顔をして遣り過ごしてしまうのではないかという疑懼も頭を擡げて来るのだから始末に悪い。そうして何やら甚だ心許なくなってしまうから、早く、暑苦しくも眩しい明日のお天道様の尊顔を拝し、その光と熱とで、夜陰に萌した疑懼を糊塗してしまいたい、などと善からぬ願いを持ってしまう私は、やはり一刻も早く眠るべきなのだろう。早く眠りたい。


※「おじさんのかさ」のあらすじはこちら↓

https://pictbook.info/ehon-list/isbn-9784061318809/

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