第肆夜 初めてした「創作」の思い出
私が人生で「創作」と呼び得る「書き物」をした最も古い記憶は小学一年生の時分にまで溯る。それは紙芝居だった。小学校で過ごした初めての年の終わりに、保護者にも手伝って貰うお楽しみ会のようなものが先生によって企画され、三十数名のクラスが概ね五、六人程度の幾つかのグループに分かれて出し物を披露することになったその用途に作ったもので、これは今でも時々懐かしく思い出すことのある私の初めての「創作」体験になっている。グループでの出し物なのに私の「創作」とは語弊もあるかも知れない。事情は後述するとして、ただ、そのように表してしまいたくなるのは、偏に「書き物」の部分、つまり紙芝居の台本を全て私が書いたからに他ならない。だから厳密に言えば、台本を書いた私と、画を描いたもう一人とによる「創作」と言うのが正しいだろう。
とはいえ、私たちのグループの出し物が当初から紙芝居だったわけではなかった。当時の担任であった年配のC先生の説明不足に起因するものか(先生には時々そういうところがあったように記憶している。今は陶芸家をなさっているらしい)、あるいは単に七歳男子達のおつむが些か足りなかっただけなのか今となっては判然としないものの、いずれにせよ私たちのグループは出し物の趣旨を取り違えて何を血迷ったか「剣や鎧を身につけて教壇の上で戦いをする」という、いかにも男の子らしい血気に逸る「出し物」を真剣に考えていて、恐らくそれは最大限好意的に解釈してお芝居のようなものをイメージしていたのだとしても、剣や鎧はおろか肝心の台本さえ作ることなくお楽しみ会までの準備期間を無為に過ごし、真実、一体何をしようとしていたのだろうか。下手をするとお楽しみ会までに準備が間に合わず、最悪の場合は出し物が不出来どころかそもそも何らの形すら成さなかっただろうし、そうなれば先生や親に叱られ、クラスメイトの前で恥を掻くといった結末しかあり得ない、今にして思えば本当に危険極まりないあの年頃の不安定な謎の思考様式には、過去の自分のことでもありながら畏れ入るばかりだけれど、このお楽しみ会に予め保護者の支援が要請されていたところは先生も流石という他ない。
案の定、グループのリーダー的存在で私の幼馴染みでもあったSの母親が不穏な動きを察知し、お楽しみ会までもう殆ど時間がない、恐らく前々日くらいだったろうか、突如「紙芝居をやったらどうか」と電話で提案してきて、あれよあれよとその線で話が進んでいくこととなり、Sと私とで相談して題材をグリム童話の「みそさざいと熊」に決めると、Sが画を描いて私が台本を書くという役割分担がいつの間にか既定路線となっていた。出し物を二人だけで勝手に変更してしまっていることに、他のメンバーへの罪悪感のようなものが頭を擡げていたことは今もはっきりと覚えている(Sはこの時、どんな気持ちだったのかは終ぞ聞いたことがないので分からない)。
そのように決まってしまうと、急拵えの準備で紙芝居「創作」が動き出した。何故かは忘れてしまったけれど、途中までSは私とは別所で作業をしていて――Sの習い事の関係か何かだったろうか――、私が台本を書いた原稿用紙をSの母親が車で持ち帰り、Sがそれに合わせて画用紙に画を描いて、台本の原稿用紙をその裏面に貼り付けた形にして再度、私の家に運んでくれるということを何度か繰り返していた記憶がある。冷静に考えればこのSの母親の動きには不審な点も多いとはいえ、そのような動きをして貰わなければならない程、子ども達の気付かぬところで情況は切羽詰まっていたのかも知れない。そして仕上げの段階になってSが私の家にやって来ると、今も忘られぬ二人の協働作業がそこから始まる。Sが画を描いたその裏に、私が原稿用紙に書いた台本を貼り付けて一枚を完成させるという作業の繰り返しは、一人で行うものとは決定的に異なる、二人で行う「創作」の昂揚感を齎すのに十分だった。これは、自分の書いた文章が紙芝居という目に見える形で完成していくことへの快感もさることながら、Sの画の描きぶりが傍目に見て魔法のように鮮やかであったことも大きかったろう。
最後の仕上げが終わり、お互いに握手して労い合ってから、迎えに来た母親の車に乗ってバイキンマンの歌を歌いながらSは帰って行った。作業をしていた客間の薄ピンク色の絨毯に鉛筆で大きく「日本」と落書きが残されていたのが忘れられない。
お楽しみ会の当日、創作の蚊帳の外に置かれていた他のメンバーには紙芝居を順番に読むという役が用意されており、特にそのことには不満も上がることなく、事態は結局のところ丸く収まった。改めて当時のことを振り返ってみると、あるいはSの母親の「根回し」が周到に行われていたのだろうと思われてならない。それは彼女が「政治家の妻」であったということと無関係ではないような気がする。大人同士で遣り取りする毎年の年賀状が、Sのところからだけ父親でなく母親の名で送られて来ることが当時は不思議だった。
幼稚園から高校まで一緒だったSとは、大学で進路を分かつことになった。彼は今や地元で議員となり――選挙期間中にC先生が演説を聴きに来て下さって嬉しかったとブログで以前読んだ――、二年ほど前に結婚した。善し悪しは兎も角、いずれは父親の地盤を引き継いで国家の枢機に参画することにでもなるのだろうか、その時、私は何をしているだろうか、などと思い巡らしていたらもう外が明るくなっていた。
記憶は思い出される度に「時間」という槌に打たれて形を変えて歪んでしまうものだから、こうして書き終えようとしているこの思い出そのものも、かなり曖昧だしデフォルメされてしまっているだろうことが何とも哀しい。
最後に、連休中に読み返した小説の一節を引用して擱筆しようと思う。「永遠の破壊者」に破壊し尽くされて決定的に毀損される前に、こうしてこの段階で書き残しておくことには幾らかなりとも意味があったのだと思うことにしよう。今日は午后から動けば良いので助かった。にしても、早く眠りたい。
* * *
さて人間の記憶の果敢無さ、『時』の磨滅には
【上田敏「うづまき」(『明治文學全集 31 上田敏集』〔筑摩書房、1966〕所収、初出は1910)】
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