第弍夜 身体、この不如意なるもの

 誰かと一緒に飲むわけではない夜明けの珈琲は覿面に効きが良い。夜通し書き物をしながら飲む珈琲だと尚更に。ある意味、お酒よりも始末に悪いのではなかろうか。筆運びにつきものの余計な逡巡を抑圧し、束の間の脳の活性を促したその先に待つ心地良い倦怠が、結局は抗い得ぬ眠気へと誘ってくれるお酒とは対蹠に、珈琲は脳の活性を亢進させて勤勉を指向させるやに思われるものの、その先には研ぎ澄まされ過ぎていよいよ自傷する精神と、随処に顕れる身体の違和とが待っているのだから。

 芥川龍之介の『戯作三昧』に描かれた馬琴のように「神来の興」とまでは行かないまでも今日は筆が進んだ。一度得た着想の種火が消えないように筆を慎重に走らせる感覚、脳が「乗ってきた」という体感を今日は少しだけ得られたように思われる。ただ、そうして書けるだけ書いて、寝て起きた「翌日」には殆ど使い物にならないくらい脳が疲弊し、その日一日を無為に過ごす羽目になることは経験上、分かってもいる。気の持ちようなどでは如何ともし難い疲労というものがあるらしい。昼日中から勤勉に、規則正しく原稿に取り組める人が羨ましい。疲労を翌日に持ち越さないように按配できる人が羨ましい。

 身体は今、絶不調の唯中にある。学生時代、いや院生時代くらいまでなら、強固な精神が身体の馭者の役割を果たしてくれていたはずなのに、今は完全に立場が逆転して身体に振り回されてばかりいるような気がする。子どもが成長して自我を持ち始め、親の言うことを聞かずに好き放題しているかのよう。自分の身体が解らなくなる。

 こういう徹夜明けの朝は、時々刻々、本当に様々に不調が顕れてくる。脈動の存在感が大きくなる。呼吸が心なしか浅くなっている。目が霞んでこめかみが傷む。内臓同士が癒着するような感覚があって食欲は感じないのに、胃が空っぽ――あるいは珈琲だけ――であることを示す間の抜けた音が時折、一人しかいない部屋に響く。干からびた喉に生唾が迫り上がってくるようなのに、喉は何故か一向に潤うことがなく、咳が一度でも出ようものなら暫く止まらなくなる、などなど。さなきだに今日は、先刻来、梅雨の断末魔のように、信じられない降り方の鬼雨が断続していたせいだろうか、その最中に軽い不整脈も出て、先程、リスモダンを飲んだ。漸く床に就いたのに又しても眠る機を逸してしまったので、今これを書いている(実はそれ以前に、書き物が一段落したタイミングを捉えてamazonプライムビデオで又吉直樹原作の「劇場」の映画を観てしまったことが、少なからず今の体調に影響しているのだろう……自業自得に違いない)。

 こういう状態だと、自然、幼時の記憶が甦ってきてしまう。昔から体が丈夫な方ではなく、特に小学三年生から四年生にかけては学校を休んで寝込むことが随分と多かった。大抵そういう時、外は今日のように雨模様で、私は二階の自室でなく一階の和室に寝かされるのだった。仄暗い和室の天井を仰ぎ見ながらぼんやりとしている時間は嫌いではなかったけれど、身体の不快感は如何ともし難い。ただ、そうして寝込んでいるうちにも快方に向かう頃合いを見計らって、母は必ず私に本や雑誌を買ってきてくれた。私の纏まった読書体験はこの時期に本格的に始まったのかもしれない。具合が悪くなる度に本棚に本が増えていくことだけは嬉しかった。いずれにもせよ、身体の不調の記憶は、こうして昔から不即不離の影のように私の人生に付き纏っている。 

 昨年度末の健康診断で、大事というわけではなかったものの、生まれて初めて「要医療」の判定を受け、若いと思っていた身体にも、馭しきれぬ不調が頻発するようになった。思えばここ数年、春先に体調を崩すことが、しかも手ひどい崩し方をすることが続いている。特に酷かったのは昨年で、喉と気管支を患ったせいで声が暫く出せなかった。幼時のことがあるので、日頃から健康にはかなり気を使っているつもりではいたものの、やはり不十分だったということなのだろうか。無頓着に生活していても何らの影響がない人たちもいる。羨ましい。

 とはいえ、こうして思い廻らす時に私がいつも思うのは、客観的に健康な「状態」と主観的に自分が「健康である」という「意識」、どちらがよりその人の「健康」にとって重要であるのかということだったりする。私は誰かに「健康」だとお墨付きをもらうよりも、他でもない自分自身が不調・不快を感じずに「健康」を実感できることのほうが嬉しい。「病気」という字句がまさに「気」の問題であることをその字面によって示唆するように、やはり「健康」にとって気分は大切だろう。そしてそれは、あるいは「幸せ」というのも同様で、例えば国際機関からよくわからない団体までもが毎年挙って「世界幸福度ランキング」に類するものを発表しているけれど、「あなたは幸せですよ」と他人が有り難くも決めて下さる「幸せ」を、果たしてそう言われた当人が「幸せ」だと感じることができるものかどうか……などと考えつつ、海で泳ぐことはおろか、海に入ったことすらない私でも「海の日」という名の休日を享受できること、そしてそれが今日であったことは僥倖としかいえない。

 徹夜して、朝どころか直に午を迎えようとしている。昨日という日の随分と長いアディショナルタイムは一体いつ終わるのか。早く眠りたい。

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