眠られぬ夜に綴る随想録
工藤行人
令和二年(2020)
第壱夜 飲食店の寿命
確かに雰囲気の良い店ではなかった。職場の近く、唐揚げとワインが売りで昼のランチは序でという感じの、あくまで夜の時間帯をメインにしていた店がいつの間にか閉店し、違う名前の店になっていたことに気付いたのは昨年の今時分、梅雨時のことであったような気がする。ただ、居抜きでもしたのか、新しい店もやはり唐揚げを売りにはしていて、前の店より照明が多少明るくなったくらいの違いしか、店内をさほど興味深く眺めていたわけでない私は認識できなかった。だから「その店」というより「その場所」というべきか、とにかく「そこ」はある意味でシームレスに、私の現在の中に存在していた。鯛のあら汁が吸い物で付く昼定食を目当てに行く和食店が混んでいる時や無性に唐揚げが食べたくなるような時、概ね月に二、三回の頻度でお昼はその店に行くようになった。
令和二年がほぼ折り返しに差し掛かった今週、コロナ自粛も緩和されて久方ぶりに職場に出勤したその昼休みに、見慣れた通り沿いを歩いていると、件の「その店」の中に明かりがないことを発見してしまった。すぐに予測できてしまって、案の定、コロナの影響で閉店する旨を入り口の貼り紙が告げていた。雨天に仄暗むどんよりとした空気が余計に気分を沈ませ、その店で食事した時の記憶が一気に走馬燈のように私の脳裡に映じていった。
その店は、とにかく店員の入れ替わりが激しかった。ハリネズミのようにツンツンした短髪の男性店長が、客の存在もお構いなしに店員の手際の悪さをあまり綺麗でない言葉で叱責する。確かに昼時の飲食店はどこも戦場なのだろう。けれども、その切羽詰まった状況を客にあからさまに見せて良いものか、飲食業の経験のない私は考えてしまう。誰かが叱責されている姿を見て晴れやかな気分になる人はまずいないだろう。ただ、具体的にどういった手際の悪さなのかは傍目にはわからないものの、仮に私が店長だったなら、やはり店員の手際の悪さを叱責するかもしれないし、或いは私が店員だったらすぐに店を辞めているだろうことは確実のような気もしていた。そういう店だった。
とはいえ、この控えめにいっても首を傾げたくなるような雰囲気の店にあって、唐揚げは美味しかった。料理に罪はない。恐らく店長にも店員にも罪はない。料理はそのままで良くて、店で働く人たちにはほんの少しの工夫が足りなかっただけなのだろう。
いずれにせよ、私にとってつい先日まで日常だったものがすでに過去になり始めていた。いや、過去になってしまった。私の記憶に残る店の最後の風景の中にはハリネズミ店長の他に三人の店員がいる。特に強くその店長に当たられていた、作務衣の似合う恰幅の良い若い男性店員、店長に叱られながらも時折よくわからない褒められ方(否、からかわれ方?)もする、グレーの髪で鶏肉を調味液に浸したりご飯を装ったりしていた年配の男性店員、手際良く鶏を揚げては店長に代わって指示を出すことも多かった少しふっくらした女性店員。彼彼女らは店がなくなった今、職を失ったのだろうか、彼彼女らの姿を目にすることは私の人生でもう二度とないのだろうかと思うにつけ不必要な感傷に襲われる。歳を重ねても中々克服できない私の宿痾である。いずれ何とかしたいものだ……しかしどうやって?
その日の仕事帰り、これまた久方ぶりに立ち寄った古書店街でも、六十年続いた著名な老舗洋食屋が閉店するということで、店の入り口はいつも以上に長い列をなす客を銜え込んでいた。その長蛇の列こそ、店がどれだけの人に愛されたかを証す勲章だろうし、店としては冥利に尽きるというものだろう。ただ、客の立場として考えてみると、少なくとも私は最愛の店の「最期」に立ち会える自信はない。例うるならば、これは推測になるけれども、私は両親が居なくなった後、もし実家を取り壊すことになったとしたら、その「最期」の瞬間に立ち会うことは決してないだろうという、そういう確信に似ている。
これまで出逢ってきた、思い出の店の「最期」に思い致すと、閉店の予兆というものは極々些細なところに潜んでいるのかもしれないと思えてくる。
皇居のお堀を眺めながら食事を楽しめる、ある美術館に併設されていたレストランは、最後に行った時、ガラステーブルに、小さいけれど確乎とした、短い糸くずのような擦り跡が付いていた。銀座のあるビルの地下で五十年続いたグランメゾンも、廃業する少し前に食事した時のワイングラスに付いていた、これも本当に本当に小さな疵が忘れられない。運命を刻印でもされたかのような小さな疵は「滅び」という部屋の扉の鍵穴のようで、その鍵穴にぴたりと合う鍵=きっかけの来訪を待っていたかのようだと、後にして思わずにはいられない。
事情は種々あるのだろうと承知しつつ、しかしうんと甘い目しか持ち合わせていない私にしてみれば、なぜ閉店したのか解らない店もあった。
新宿でビール会社が運営していた、鶏肉のクリーム煮のパイ包みが売りのその店などは最たるもので、そこは四国に転勤する大学の先輩と二人だけでする送別会で使ったのを最初に、その後も大阪の大学病院に勤務することになった高校時代の友人と暫し別れの晩餐がてら、当時、難病に冒されていた祖父の処方薬の所見を聞いたり、珍しく電話をかけてきて会った妹が涙ながらに話す仕事の悩みを聞いたり、それ以外にも折々に何度行ったか知れない、とにかく思い出深い店だった。鮮魚がワゴンで運ばれてきて、選んだ魚をカルパッチョにしてくれるサービスが気に入っていた。最後に食べたのは鱸のカルパッチョだった。
ある時期、行きつけの店が立て続けに閉店することが続いて、友人から「死神」とからかわれていたことがあった。だから未だに、友人は自分の本当にお気に入りの店になかなか私を連れて行ってはくれないのかも知れない。私が行くから店が潰れるのではなく、そもそも潰れそうな店にばかり私が好んで行っていたのだろうと苦し紛れの言い訳をして、もう何年経っているだろうか。
「行こうと思えば今でも行ける店」は現在と繋がる近過去の表徴であり、これが「行こうと思ってももう行けない店」になった途端、その店や料理に纏わる私の記憶の一切は、古ぼけた写真のように確実にその色を変えてしまう。存外、飲食店の寿命は短い……そんなことに思い巡らした夜。早く眠りたい。
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