此岸の道

冬月雨音

此岸

 瀬木香住 享年十八 死因交通事故による出血多量 死亡日時七月二十三日午後四時二十三分

 これが僕の彼女の最期だった。彼女の両親によると、交際一周年記念のプレゼントの買い物の帰り道だったそうだ。交差点待ちをしていたところに自動車が突っ込んでくる、そんなありふれた事故で僕の彼女は死んだ。


「ひさしぶり、おと」

 心臓が跳ね上がった。落ち着こうとして深く息を吸おうとするが横隔膜が言うことを聞こうとしない。声をかけられたことに気が付くのすら時間がかかった。頭の中が真っ白でまるで殴られて気絶するような感覚だった。聞き覚えのある声だ、何度聞いても嫌にならない、むしろどんどん好きになる声だった。聞き覚えのある呼び方だ、彼女だけが僕のことを呼ぶときにそう呼んでいた。もう絶対に聞けないはずの声で、二度と呼んでもらえない呼び方をされた。

 あの頃と同じように落ち着いて振り返ろうとする。背の高い女の子が視界に入った。純白のワンピースに時代遅れの麦わら帽。もう二、三か月早ければ完ぺきだったが彼岸の時期にあの格好は少しずれている。しかしそんなことも感じさせないほどに似合っていてほんの少し口角が上がってしまう。肩に全くかからない明るい茶色の短髪に、感情がはっきりした瞳。何度あのきれいな瞳に引き込まれそうになったかなんて数えることに意味がないということに気が付いたのは早かったと思う。

 頭ではそんなことを考えていたが、体は正直に反応していた。視界がにじむ。涙が止まらない。もう会えないはずの彼女がそこにいたのだから。

「あ、ちょっと、泣かないでよ、私も泣きたくなっちゃうじゃない……」

 あの頃とまったく同じように彼女は言った。彼女の声も泣いていた。

「落ち着いて話がしたいんだけど」

 という彼女の声で現実に引き戻され、彼女とよく訪れていた喫茶店に入る。

「まずはとりあえず、なんで私が帰ってきたのか説明しておくね」

 席について早々に彼女は切り出した。彼女の話は僕を驚かせることばかりで、重い頭を回して何とか理解しようとしたが、実際に理解できたことは彼女が話した内容の何割なのだろうか。

 彼女の話したことをどうにか要約すると、彼女は自分が死んだあと死後の世界で生活していたが、数日前に突然生活していた町のリーダーのような人に呼ばれたそうだ。そこで聞いた内容は大きく分けて二つ。縁繋町の死者は死んでから二回目の秋の彼岸に生き返ることができることと、彼岸の終わりには町の駅から出る列車に乗って死後の世界に帰らなければいけないということだ。もちろん縁繋町に帰るかどうかはその人の希望次第ということだが。

 彼女は現世で死に別れてしまった僕に未練があって戻ってきてくれたそうで、几帳面な僕が彼岸の日には必ずお墓参りのくるだろうということを予想して自身のお墓で待っていたということだった。僕と再会しいるということはつまり彼女の予想が当たったことに他ならない。彼女が自分のことをわかってくれているとはやはり嬉しい。とりあえず落ち着こうと思い、コーヒーに口をつける。

「ねぇ、私がいなくなって新しい彼女とかできた?」

 唐突な話題の転換に飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになる。一息ついて首を横に振り、君以外に僕が好きになる人なんていないだろうと伝えた。

「ならさ、私と一緒に思い出の場所とか行ってくれない?未練を残したまま別れたくないでしょ」

 こうして残された一週間で僕と彼女の思い出巡りをすることが決まった。


 次の日、僕と彼女は砂浜にいた。半島の南端から始まる砂浜だ。割と近いところには島もある。真後ろには山があって、海と山に挟まれた砂浜といっても過言ではないだろうと思う。少し坂を登れば鉄道の駅があって比較的訪れやすく、夏はたくさんの観光客で溢れる。僕らがこの場所を最初に訪れたのは彼女の家の最寄駅から彼女の家までこの砂浜沿いを歩く必要があり、一緒に学校から帰るときはいつもこの砂浜沿いの道を歩いていたからだ。有り体に行ってしまえば彼女と一番来た場所だ。

「また一緒にこの景色が見たかったんだ」

 彼女の声が聞こえてつい、横に顔を向ける。目に入ったのは太陽の光を反射して輝く海色、無限に広がる群青、そこに浮かぶ大きな純白。そして彼女の横顔が何よりも美しい。この砂浜には何度も一緒に来たし、花火大会でも来ていたが、それでも僕の記憶に残たのは花火でも美しい島でもなく、青いキャンバスに描かれた彼女の横顔だった。

 彼女の横顔に見とれていたら彼女は突然砂浜に向かって走り出し、

「何してるの、早く来て」

 と急かしてきた。こんなところも変わっていない。僕は何度彼女に急かされ走らされただろうか。僕はまた彼女に急かされるのをずっと望んでいた。

 僕は彼女に向かって走り出した。彼女はもう波打ち際までたどり着き、靴を脱いでいた。声をかけようとしたら、振り向きざまに水をかけてきた。

「走るのが遅い罰だよ」

 彼女に馬鹿にしたように言われ少し頭に来たから、僕は彼女に水をかけ返した。

 結局彼女とは日が暮れるまで浜辺で水をかけあったりして遊んでいたが、結局お互いびしょぬれになり、そのままお開きとなった。

「明日は山に行こう、初デートの」

 別れ際に彼女はこう言った。


 次の日、僕らは朝からロープウェイのかごの中から燃えるように真っ赤な山肌を見下ろしていた。

 隣に座っている彼女に目を向けると、どうやら寝てしまっていた。楽しみで寝れなかったのか早く起きて眠いのか、とにかく寝不足であるということはよくわかる。

 そういえば初めてここに来たときは高いところが怖いって震えていてずっと手を繋いでいた。普段のしっかりしたところばかり見ていたから、彼女が怖がっている姿が僕の目には新鮮に映った。残念だが今回は寝ているうちに手を握ろうかと悩んでいるうちに、終着駅が見えてきてしまった。こういう時に手が取れるようになっていればよかったのに、と過去の自分に文句を言っておく。

 とりあえず彼女を起こそうとして振り向くと、少し不満げな顔が映った。どうしたものか、と考えていると降りるときに手を握ってきた。その日のぼくの手は一日中、懐かしい感触に包まれていた。


 次の日の朝、彼女と共に電車に揺られていた。空には薄い雲がかかっている。天気予報によると夜には降り出すかもしれないということだ。天気があまりよくない中で彼女を連れまわすことには抵抗は少しあったが、それでも彼女が外に出たい、どっか行きたい、と駄々をこねた。こうなると僕にはなすすべはなく、やむを得ず外に出た。とはいえどこか出かける場所はあっただろうか、恋愛経験値の少ない僕には思いつかない。それに彼女との行動範囲は意外なことに非常に狭かった。そのため昨日までに思いついたところは大体回り切ってしまったのだ。しょうがないので彼女と共に通った高校へ行くことにした。正直なところ、大して思い出はない。

 僕らが通っていた高校は卒業生が部活の指導に来ることが多いためか入りやすかった。ちょうど学校が休みの日だったため、昔使っていた教室を見て回ったり特別教室を見て回ることもできた。在学当初は休日だろうがお構いなしに登校日が設定されていたりしていたから学校に入れるか少し心配だったが、最近は休日登校ではなく平日の授業を増やしているようだ。僕らが在学していたときもそうしてくれたらどれだけありがたかったことか……

 卒業してから改めてきてみると在学当初よりも愛着がわいていることに気が付いた。しかし彼女はもう飽きた、別のとこ行きたい、とまた駄々をこね始めてしまった。一日にこんなに駄々をこねるのも久しぶりだったがこっちに戻ってきて落ち着いてきたのだろう、しょうがない聞いてやるかという少し投げやりな気分になりながらも彼女の希望を叶えるために最善を尽くした。

 とはいえ最善を尽くすなんて大仰な言い方をしたが、僕の力では喫茶店に連れてくるぐらいのことしかできなかった。それでもここでは彼女といつも勉強をしたり本の感想を伝えあったりデートの計画を立てたりといったことをしていたことを思い出したら学校よりも彼女との思い出があるのだな、と思った。そう気が付いた時、学校ではなく最初からここに来ればよかったと少し後悔した。

 結局僕らは昨日や一昨日の感想や、彼女がいない間のぼくの話、逆に僕がいないときの彼女の話などで盛り上がった。気が付いたら日が傾いていたので二人で慌てて帰り支度をしていると、

「明日はおとの家に行きたいな」

 彼女は唐突にそう言った。


 次の日は、彼女の希望通り僕の家で過ごすことになった。朝から厚い雲が空を覆っていて今にも降り出しそうだったからちょうどよかった。彼女は僕のベッドに寝転がって適当な小説を読んでいた。そもそも僕の部屋には長い時間をつぶせるものは元々ほとんどなく、当時暇をつぶすのに使っていたパソコンやゲームなどは大学入学の折に持って行ってしまったいまでは本当に何もない。見る人によっては夜逃げの後か、と思うだろう。それにしてもなぜ彼女はうちに来たいといったのだろうか、彼女には物はほとんど運んでしまったと言っておいたはずなのに。

「久しぶりに二人だけになりたかったの、最近ずっと人のいる場所にいたから」

 驚いた、まるで彼女が僕の心を読んだかのようだ。そういえば彼女は元々こういうことをするところがあった。すごい時にはちょうど一字一句あっているなんてことも。そんなとき僕はいつもうまく答えられなくてそのままうなずく。うまく言いたいことを表現できそうにもないとき適当にうなずいて終わりにしてしまうのは僕の悪い癖なのは自覚している。しかし彼女もそれをわかっているから何も言ってこない。僕らはいつもそのまま黙り込んでしまう。今回もそうだった。そして僕はこの静けさが好きだった。

 結局その日は予想通り、一日中何をするでもなく終わった。帰り際彼女は伝えたいことがあるから明日は私の家に来てほしいと言った。親が一日いないという反応に困る一言を添えて。


 昨日は僕の家、今日は彼女の家、と二日連続でおうちデートをするとなると何をしたものかわからなくなる。とりあえず僕は彼女の部屋のベッドの上で漫画を読む。僕は小説ばかり読んでいたが彼女は漫画もたくさん持っていたので、僕は彼女の家でよく漫画を読んでいた。ちょうど二巻が読み終わるころに、彼女が飲み物を切らしたので、取りに席を立った。僕は次の巻を取ろうとして本棚に近づくと、本棚の横にある彼女の机の上に置いてある紙の一文が目に入った。

「此岸発彼岸行」

 その文言に興味をひかれ、説明書きを読んでしまった。その紙はどうやら死者が戻るための列車の切符で、生者が共に乗ることで二人は永遠に死後の世界で共にいられる、ということも書いてあった。視点を変えると生者は自殺した、ということになるのだろうか。衝撃に立ち直れないでいると、ドアの開く音がした。

「あぁ、見ちゃったんだね。そのことは秘密にして帰ろうかと思ってたんだけど。出来たら忘れてほしいかな、そのことは」

 彼女は表情を殺した顔でそう言った。

 そのあと僕は彼女に帰ってほしいと言われて何も言えずに帰った。


 次の日の朝僕はひどい頭痛とともに目が覚めた。昔から答えの出ない問題に直面すると頭痛がする。彼女と別れた後どう帰ったのか、自宅で何をしたのか全く覚えていない。とりあえず僕は彼女に連絡しようと枕元に置いてある携帯を取る。画面を開くと彼女からメールが届いていることがわかった。メールを開く。

「昨日はいきなり帰らせたりしてごめん。あと私のことは忘れてほしいの。多分これがあなたに贈る最後のメールにするから。それじゃあ」

 彼女はいつもは非常に整ったメールを送ってくるのだが、このメールはあまりにも突然で、しかも文脈もおかしい。しかも僕には彼女がこんなメールを送る理由がわからなかった。

 ただでさえあの紙に書いてあったことは衝撃的であったのに、このメールはさらに僕を悩ますには十分なものであった。メールを読むに彼女は別れようとしているが、僕にその気はまったくない。彼女と再会する前から、毎年墓参りにいくことは決めていたし、他の女性と付き合うことはないであろうという不思議な実感もあった。彼女はあの紙を見られたくなかったのだろう。当然だ、自分のために相手に死ねと言うのと同じだから。僕が彼女と同じ立場だったら彼女と同じような反応をする。そう思うと果たして僕が彼女と一緒にあちらへ行くのは正しいことなのだろうか、彼女は僕が共に行くことを望んではいないのではないだろうか。少なくとも僕には彼女に死を選んでまで僕と共にいてほしいと願うことはできない。頭痛がひどくなってきた、頭がうまく働かない。まるで自分が闇に飲まれてゆくような錯覚に陥りながら僕はそのまま意識を手放した。


 彼女と再会して七日目、今日が彼女との別れの日だ。昨日は頭痛でほとんど起きていられなかった。ただひとつわかったのは彼女が今でも好きだということ。

 ベッドから起き上がる、まだ頭が少し痛むが大した問題ではない。カーテンを開けて外を見る。日が上がっていなかった、いや、日がほとんど落ちていた。あまりの衝撃に二日間ほぼ寝ていたようだ。

 急いで駅に行く。毎日夜行列車が出る縁繋駅には、しかし見たことのない純白の客車が漆黒の蒸気機関車につながれた状態で鎮座していた。しかもよく見ると三重連。いつも見る汚れが目立ってきていた青い客車に青い電気機関車の夜行列車とは違う世界の列車だということが、その威容によってわかる。ホームには紺の制服に帽子を深くかぶった細身の車掌と思われる人が立っていた。

「瀬木香住様のお連れの方でしょうか」

 とりあえず頷き返しておく。

「瀬木様は二号車六番の席でございます。お連れの方の席もございますのでご安心ください」

 どうやら、自分も彼女とともに旅立てるらしい。二号車のほうへ進む、足取りは軽い。彼女に最初に何を言われるだろうか、怒られたら謝ろう、土下座をしてでも一緒に行こう。そう決めたらどんどん気持ちが軽くなる。列車に乗り込みデッキを通り抜ける。彼女を見つけた、もう会えないと思っていた、ずっと探していた背中だ。さて、声をかけよう、謝り倒そう。時間はたっぷりあるのだから。

「やあ、二日ぶりだね。隣は空いてるよね」

 飛び切りの笑顔と、出し慣れてない明るい声で声をかけた。

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此岸の道 冬月雨音 @rain057

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