吾輩は武蔵野の黒猫である

美ぃ助実見子

全篇

 吾輩は黒猫である。名前は時代を隔てる度に変わっている。黒猫、怪猫、猫又、野良猫と呼ばれたが、今は名前など無い。目だった特徴と言えば、ヒラヒラ揺れる二尾であろう。

 何処で生まれたか、そんな些細な事は当の昔に忘れた。ただ、生まれ変わったことだけは記憶している。吾輩はここで初めて人間という者を見た。


 吾輩は荻が生え渡る薄暗いじめじめした原野でニャーニャー泣いていた。腹の虫がグウグウ泣いて腹ペコだからだ。ニャーニャー鳴くことを試みにやっても誰も来てくれない。鳴いても腹は満たせないと覚った吾輩は、腹の虫を満足させるために狩りを始めた。


 ガサガサ荻を掻き分け走り抜けた先にいたチョロチョロ動く小さな蜥蜴。本能に促されるまま跳び付き、ガツガツと食べた。ポタポタ血が滴る蜥蜴は美味しかったが腹の虫はグウグウと鳴く。

 腹の虫を満足させる為に次の食べ物を探す事にした。


 ヒタヒタ走り回って見つけたのは、茶色い細長い物に巻かれた生肉。さっき食べた蜥蜴よりは美味そうに見えた。ピョンと軽やかに飛び跳ねて生肉にかぶりつき無我夢中で貪った。

 腹の虫は満足してくれたが、やけに胃がキリキリと痛み、何故か身体もビリビリと痺れて動けなくなっていた。

 吾輩がジタバタと苦しみ悶えていると目の前に突然現れた大きな動物を見る。吾輩よりも遙かに大きく直立する動物。人間との初遭遇だった。


 しかも後で同族に聞くとそれは猫を捕まえて皮を剥ぎ取り売ることを生業にする、醜悪な人間だったそうだ。


 人間は『黒猫か~。見て呉れは悪いが良い皮が見つかった。雌猫であれば高く売れる』とゲラゲラ嘲笑して吾輩を見下ろす目は蔑んでいた。


 吾輩は人間に頸筋を掴まれスーと持ち上げられると、値踏みするようにじっくり何度も何度も見られた。


 人間は『なんだ、雄猫か。びた一文にもなりゃしねぇな。とんだ生肉損だぁ、しけた、しけた』と随分がっかりさせた。


 その上、人間はじめじめした地面へ吾輩を放り投げる。吾輩は息苦しくなって泡をブクブクと吐いているに人間は目を向ける事もなく、その場を早々と去った。

 吾輩は随分と苦しみ悶えていたが、段々とそれも無くなり身体から完全に熱がスーと抜ける頃になると、目の前がジワジワ真っ暗になって死んでいた……。


 死とは再生である。気が付けば、紅く輝く真ん丸のものが見えていた。ザワザワ荻がざわめく中、じめじめした原野で見るものは、輝血の如く紅い満月だった。心に思い浮かんでいたものと言えば、沸々と湧き出る人間に対する憎悪だ。人間は欲望の為に無意味に吾輩を殺し、虫けらのように扱った。それしか浮かんでこなかった。

 吾輩は軽やかになった身体を地面からヒョイと跳ねあがらせ、吾輩を殺した人間へ復讐する為に、悠々と後を追った。


 吾輩は後に、人間が娯楽に使う三味線の素材に雌猫の皮を使うというものを初めて知る。


 ◆


 吾輩は黒猫であるが大抵のものは喰う。吾輩を殺した人間を襲ってこれみやがしに食べた事もある。人間とは存分美味しくはない動物である。寧ろ腹の虫が騒ぎ立てて、ゴホゴホむせ返りゲボゲボ腹の中のものを吐き出す不快を覚える経験をした。


 吾輩は贅沢を言える身分ではない。従って随分嫌いは少ない方だ。口に入る物は何でも食べる。ただ、すこぶる不味い経験のため人間以外の食べ物を探してみる。


 吾輩は行燈の肴油が大好きだ。木造の家が目立つ町で暮らし始めた吾輩が偶然見つけた絶品の食べ物だ。味をしめた吾輩は肴油を舐める為に人間の住処に忍び込んでは、夜な夜なピチャピチャと音を立てて舐めていた。

 時に人間に見つかり、やれ怪猫だ、やれ猫又だの叫ばれて騒ぎ立てられると何時の間にか畏怖の的にされていた。そんな些細なことに吾輩は気にするはずもなく、肴油は腹の虫の嗜みになっていた。然しながら、時代が変わりゆくと肴油を目にする事が無くなった。


 楽とは堕落である。肴油が無くなると必然的に小動物の狩りに舞い戻った。吾輩は忘れていた。小動物とはすばっしこいものであると。旨くいく時もあれば、とんといかないのが狩りである。その事すら忘れていた。


 人間の食べ物は見るからに美味しそうには見えなかった。贅沢は敵だ。いい加減腹を空かせた吾輩は我慢が出来ず、人間から食べ物を盗んで食べた。

 食べてみると妙なもので、思いのほか美味しかった。一度舌が肥えると、腹の虫も喜ぶ食べ物ばかり食べる様になっていた。何時の間にか狩りを止めて、楽をする事ばかり吾輩は覚えた。そんな吾輩がもっぱら食べているのは、何時の時代も人間が食べ残した残飯。


 ◆


 吾輩は人間に問いたい。人間は何故、欲望の為に身勝手気ままに自然を壊していくのか。人間は忘れているのか。自然は数多の生命を育み、多大なる恩恵を人間へ齎してきた事を。


 吾輩が最初に見た人間の町は澄んだ空気が漂う木造の軒並み。江戸と呼ばれた町。数多の大自然が残る良い時代だった。人間からも自然への慈しみを感じとれていた。


 時代が変わると共に、愚かにも人間は自然が残る未開の地に足を踏み入れ、容赦なく破壊の限りを尽くす。そして人間の新しい住処を作り自然を淘汰したと勝ち誇る。それが文明を発達させ、より良い生活に繋がると勘違いもしている。それはただの独り善がり。誰も得をしない野蛮な破壊行為である。


 自然と共存共栄してこそ、意味がある。困るのは人間だけではない。自然に生きる全ての生き物へ迷惑が掛かる。人間の欲望を満たすだけの世界ではないこと自覚し反省して、自然を大切にして欲しいものだ。それが食物連鎖の頂点に立つ者の勤めだと吾輩は思う。


 ◆


 吾輩は人間に哀れみを感じる。近代の人間の町並みは自然を全く感じない。夜ともなると地上で輝く星々が目に痛い。むせ返る息苦しさを覚える淀んだ大気。鼻を衝く黒く濁った水がドロドロ流れる川。鉄の大きな動物が黒煙を吐き休むことなく律義に働く。耳が痛い喧騒騒音が蔓延るガヤガヤした岩の色の町並み。東京と呼ばれる町。


 そんな町で人間はよく平然と生活できるものだ。吾輩は大いに感心する。


 そこで暮らす人間は規則正しい。朝日が昇れば当たり前のように働き、日が暮れれば導かれる様に寝床に戻る。そんな勤勉で刺激の無い日常を繰り返す人間。それ自体に疑問や飽きはこないのだろうか。吾輩は理解に苦しむ。吾輩のように好きな時に動き、好きな時に食べ、好きな時に寝る。その方が随分と気楽だと思う。


 息苦しさを覚える都会から吾輩はいずれ離れて暮らす事にする。


 ◆


 吾輩は彼らを観察すればするほど、人間が大嫌いになる。人間は獰悪な動物で吾輩達を容赦なく虐める。腹の虫が鳴くからゴミ箱を漁っているだけなのに、やれ野良猫だ、やれ保健所に通報だと必要以上に吾輩達を追い立てる。少しは吾輩達の身にもなって欲しいものだ。


 人間は各下の動物を平気で虐待する。吾輩の同族が矢で射られ不様に死んでいく悲しいさまを幾度と見て来た。本当に人間は優劣な動物だと勘違いしている。格下の弱い動物しか虐める事しか出来ない、劣等な動物のくせに。


 我等猫族がその気になれば人間を喰い殺す事ができるというのに、何も分かっていない。


 我慢の限界を覚えた吾輩は、都会にいる猫族を集めて決起集会を開いた。

 無論議題は、吾輩が経験した人間に対する復讐だ。吾輩に賛同する一部の同胞もいたが、猫族の総意は得られなかった。それは、吾輩のように強い猫もいれば、普通のか弱い猫もいる。人間と共存共栄を望む気弱な猫だっている。反対派が過半数を占めると、今まで通りに無抵抗を貫く結論に達して集会は閉幕した。だから我等猫族は人間に反抗する事は絶対にない。


 吾輩は都会の猫族に異端者扱いされた。毛嫌いされた吾輩は自ずと都会を予想より早く失意の思いで離れる事になった。


 ◆


 吾輩は知っている。人間とは可笑しな動物。格下の動物を可愛がる輩もいる。都会を離れて片田舎に移住した吾輩には、同族の友達がいた。名前は無い、野良の黒猫である。木造平屋の民家を寝床にしていた。飼い猫では無いと野良の黒猫は言うのだが、平屋の主人に随分と可愛がられていた。微笑ましい光景。人間とは存外悪い輩だけではないと知った。


 吾輩がひょっこりと姿を見せると、野良の黒猫は随分と喜んだものだったが、吾輩と違い短命の運命。あっさりと死んでしまった。吾輩のように野良の黒猫も生まれ変わるとジッと眺めもしたが、にこやかな死に顔からは生まれ変わる兆候は見て取れなかった。


 吾輩は不思議な光景を見た。野良の黒猫が死んだ時、鼻の下の黒髭の主人が、悲観に暮れる余りに沢山の人間に訃報の手紙をだしていた。然も野良の黒猫の墓を立てて、書斎裏の桜の樹の下に埋めていた。野良の黒猫の小さな墓標の裏には句が添えられていた。吾輩も読めれば良かったが難しくて読めなかった。ただ、句から野良の黒猫の死を哀れむ思いはすこぶる伝わった。


 吾輩も野良の黒猫と同様に人間に手厚くされれば、きっと今の吾輩はいないと思う。


 ◆


 吾輩は心苦しい近代時代を生き抜く黒猫である。

 野良の黒猫が天に旅立ってからは武蔵野の各地を転々とした。吾輩の居場所を求める様に随分と旅をしたものだ。漸く落ち着ける居心地の良い場所を見つけた。ここは自然が多く残る狭山丘陵北鹿の鬱蒼とした森林の一つ。


 吾輩は安住できるこの森の中で暮らしている。暗転も感じ、空気も水も澄み、存外静かで心寂しいが、自由自適な生活が送れる。ただ、難点もある。腹の虫を満たす食べ物を捕まえる必要があるからだ。残飯を漁れれば随分と楽であるが、人間みたいに欲を言っても際限がないから我慢する。


 稀に残飯懐かしく、近隣の軒並みに行く事があるのは余談である。


 吾輩は黒猫である。これからも無名の黒猫ままひっそりと人間社会に溶け込んで生きていく。

 人間社会が人間達の手で自ずと滅びるその日まで……。

(了)

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