第4話 生きているという奇跡


 無数のフラッシュがたかれている。拒絶するように閉じた目蓋の上からでも、無機質な光は容赦なく襲ってくる。

 10歳にもならない小さな身体は逃げ出すこともできず、目の前の喧騒が通り過ぎてゆくのをじっと待っていた。

 『この度の判決について一言!』怒号のような大人たちの言葉が裁判所の出入り口で無作法に飛び交う。

 黒いスーツを着た大柄な男が立ち尽くしていた少年の身体を抱きかかえると、カメラやマイクを持った群衆をかき分けながら車の中へ入っていった。誰かに守ってもらうことにさえも、その少年が露わにした感情は《《無抵抗』》だった。

 黒塗りの車窓を僅かに下げると、「公式な返答は弁護士を通じて明らかにします」とスーツの男は言った。男が合図すると、半ば強引に車が走り出す。報道関係者達は必死にその後をついていくが、ひとりまたひとりと脱落していった。

 「奇跡の少年か」

 去ってゆく車を見送りながら、マスコミのうちの誰かが呟いた。

 その言葉に、他の記者が茶化すようにして答える。

 「聞いた話によると、かの坊やは通商産業界の大物社長の息子らしいぜ。莫大な株式と資産が転がってくるんだと」

 「10歳にして悠々自適かよ。これだから奇跡ってのは不公平なんだ。俺も宝くじでも当てて南の島で暮らそうかなぁ」

 「何言ってんだよ、お前が引けるのは貧乏くじだけだろうが」

 「スクープも取れたためしがないしなって、うるせぇよ。ちぇ、そんなこと言ってたら雨まで降ってきた。こんな退屈な場所からはお暇させていただくとするか」

 ひとしきりの会話の後、報道関係者達は誰からともなくその場を去っていった。

 最高裁判所の上空には重たい雲がかかっている。

 つい先程までの騒ぎが嘘だったかのように、あたりは静けさを取り戻していた。


        ◯


 自転車を漕ぎ続けて2時間が経った。目的地もなく、アルミとゴムでできた輪を無心で回転させる。ペダルは物言わず、僕の重みを黙って受け止めていた。

 不自然なほどに青い空が、この地球がいくつもの悲鳴を響かせながら回っているという事実を覆い隠す。

 『どうして僕は生きているんだろう』

 誰に頼んだわけでもないのに、太陽の光が眩しいと感じる。誰に頼まれたわけでもないのに、僕は他人を容易く傷つける。そして誰に頼りたいわけでもないのに、僕はひとりでは生きていけない。こんな下らない存在が、どうしてこうも深く息を吸っているのだろう。カーブだらけの坂を降りながら、そんなことを考えていた。

 山道は進めば進むほど、曲がる頻度を増やしていく。カーブが15回目を数えると、それまで木々に囲まれていた景色が急にひらけた。

 深い山間に、一部分だけ土の露出したところがある。そこには既に大勢の人々が訪れていた。そしてこの場所こそが、墜落事故の現場だった。


         ○

 『おい、着いたぞ』と言って、アトムは僕の肩を乱暴に叩いた。

 はっと目を覚ますと、バスの中には僕とアトム以外には誰もいなかった。どうやら僕は眠ってしまっていたらしい。クラスメイトたちは先にホテルへ向かったという。

 修学旅行も3日目になり、知らぬ間に疲労も溜まっていたのかもしれない。僕はアトムに礼を言うと、おぼつかない足取りでバスを出る。

 そう、僕はいまも生きている。

 あの日、あの場所で死ぬべきだったこの僕が。

 振り向くと、無人になったバスが佇んでいる。背の高い木々の間で、息を潜めるように車輪の轍を土の上に残している。

 『どうした』

 やってこない僕の様子を見にやって来たらしいアトムが声をかけてくる。

 『いつものあれか?ふらっしゅばっく?』

 『いや、大丈夫だよ。ただバスを見ていただけ』

 『あっそ。なんか最近お前、ボーッとしてること多いよな』

 『そうかな』そうかもしれない。

 『帰ったらさ』

 『あん?』アトムはラグビー部で鍛えた身体を翻し、機敏に振り返る。

 『帰ったら、新作のゲーム買いに行こう。発売日が修学旅行と被っちゃったから、早くやりたくて仕方ないんだ』

 『お、アルファーファンタジーの新作な、俺も気になってたんだよ』

 『なら、まずは生きて帰らなきゃ』

 『家に帰るまでが修学旅行ってな!』わはは、とアトムは笑う。

 ひとりひとりに生きる理由があって、誰もそれを邪魔しあわなければ、それで世界は

平和になるのに。

 でもこの世界、そうはいかないみたいだ。足を引っ張って、足を引っ張られて、ときには泣いたりやる気になったりして、充実した人生のフリをして人間は死んでいく。

 願はくは誰かの為に。

 僕がこの世に生き残れと、神様に選ばれた理由。

 それはきっと同じような孤独を抱えた人たちに、生きていてもらうためだ。

 逃れられないどうしようもなさを、知らないふりを出来ない人たちに、生きていてもらうためだ。

 大丈夫、僕は生きている。

 つまらない毎日、成長しない自分。

 嫌なことがあっても、それでも生きるだろう。

 だって僕の命はもう、僕のものだけではないのだから。


おしまい。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日、死ぬべきだった僕。 瀬奈 @ituwa351058

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る