第3話 ひとと違うという奇跡


 空廻瑠藍からまわりるあにとっての三田秀彦という存在は、幼なじみであり世界を測る計器であり、善悪の彼岸である。

 ラブレターの内容を要約すれば、そんな感じになるだろう。

 僕が空廻からその手紙を受け取ったのは、校舎の裏にある「縁結びの葡萄の木」の下でのことだった。

 そこはどの学校にもあるような、恋愛成就の伝説がある場所だった。

 ツル性の植物がその象徴になっているあたりにその言い伝えにはどこか執念深いものを感じていたのだけれど、実際に来てみると、そこは木々の間からさす光が幻想的で、なんの変哲もない鉄筋コンクリートばかりの校舎に比べれば、かなり雰囲気があるほうだった。恋愛スポットととして代々受け継がれてきた理由が、少しわかったような気がする。

 当の空廻は、でこぼこの足元を気にしながらやってきた僕を見つけると、うつむきながらも鋭い手つきで、水色の封筒を切りつけるように。そして僕がその封を開けるか開けないか、そもそもの状況を呑み込めてすらいるかいないかのうちに、空廻は姿を消してしまっていた。

 これがつい3日ほど前のこと。

 便せん3枚に渡る長文の手紙をもらっておきながら、僕は未だに返事をしていなかった。でもそれは空廻のことが好きだとか嫌いだとか、そういう青春じみたもののせいではない。

 それは単純な、構造の問題だった。

 神様の作る世界はいつだって不完全なものだ。そしてその些細な違いはいつだって僕たちのすぐ近くにある。

 空廻瑠藍。

 その身体は男であり、その精神は女だったのである。

 僕と空廻は10年来の幼なじみだったにもかかわらず、その心と身体の不一致を知ったのは、なんとこの時が初めてだった。

  美男子という言葉が何を指し示すかを僕は知っているつもりでいたし、実際あいつは学校で「皇子」なんていうあだ名までつけられていた。後ろで1つに纏めた髪をヘアピンを使って器用に折り返しているその姿と端正な顔つきが、まるで大和朝廷の皇子みたいだというので、その愛称が定着したのだった。そのことについて本人が何を思っていたのかは手紙には書かれていなかった。

 思い返せば、物理的な距離にしろ精神的な距離にしろ、その近くにいた回数では、他人の中では僕が1番多かったという実感がある。裸も散々見せあってきてしまったな、などと風呂上がりの自分の貧相な身体を見ながら思ったりした。結局、本当に大切なことは、僕には何も見えていないのだ。


 夏の夕日が校庭からさらに先に見える山々に大きな影を生み落としている。夕暮れ時が哀愁を誘うのは、昼間にあれだけ厳しい態度を貫いていた太陽も時間の流れには勝つことができないのだと、ちっぽけな人間でさえ気が付いてしまうからなのかもしれない。今日のように暑かった日は特に。そんなことを考えながら、僕は一人で空廻が部活を終えるのを待っていた。

 教室の窓から陸上部の部員たちがグランドに白線を引いているのが見える。そのすぐ横では、踏切の位置を確認しながらひとりまたひとりと高跳びのバーを飛び越えていた。次は丁度、空廻の番だ。空廻は大きく息を吸うと、二歩三歩と助走をとり、ほかの部員たちよりも30cmも高いバーを悠々と飛んで見せた。

 それは思わず見とれてしまうほど、大きな跳躍だった。

 新記録だぜ、と周りの部員たちが空廻の肩を叩く。

 僕は空廻の朗らかな表情の中にほんの一瞬だけ曇りが浮かびあったのを、見逃すことができなかった。あるいは気のせいか。気のせいのほうが、うれしいことだけれど。

 そして僕は、後輩達に尊敬のまなざしで見られている空廻を眺めながら

 「待つのは嫌いじゃないな」

と呟いたりした。


 「おまたせ」

 空廻はそう言いながら、そろそろと教室のドアを開いた。

 日はとっくに暮れ切ってしまい、おぼろげな宵光があたりを照らしている。

 「新記録おめでとう」

 気まずい空気にならないうちに、まずは祝福から入る。

 これでも一応、告白した側とされた側の関係である。こそばゆい空気感になるのは、空廻相手と言えども避けたい。

 「あ、見ててくれたんだね。ありがとう」

 「別に。空廻の為ってわけじゃなかったんだ。偶然だよ」

 「え?」

 「うん、だから勘違いしないでほしいっていうか」

 ……ん?なんかこれ、すごいツンデレみたいな発言しちゃったんじゃないか僕。

 気が付いた時には既に遅く。

 ぷっ、と吹き出す空廻。

 「そ、そっか」

 「うん、勘違い……しないでよね‼」

 ここまで来たら、ヤケである。腕を組み、そっぽを向いて僕はツンデレ定番のセリフを言い直した。

 「あっはっは」空廻は屈託なく笑う。その顔に、陰りは見えない。

 「やっぱエイチャンは面白いなぁ」

 「まぁ僕は空廻みたいに運動できないし」

 「でもそういうところが……」

 と空廻はそう言いかけて途中で黙ってしまう。

 こうなると僕は自分から何を話しかけたらいいのかがわからなかった。

 いつもは何を話していたんだっけ。

 僕らはもうずっと長い間一緒に生きてきて、人生のほとんどを共有している言ってもおかしくはないのに、少しもその内容を思い出すことができなかった。

 僕からすれば、空廻と過ごした時間は、意識をすれば消えてしまうような積み重ねに過ぎなかったのだろうか。ただ心と体のつながりが、僕の知っているものと違うというだけで、すべてが消え去ってしまうような関係性だったのだろうか。

 言葉に窮している僕を見兼ねたのか、空廻が先に口を開いた。

 「ごめんね、急にこんな話。もう10年も友達でいたから、いつかはボクの本当のことについて伝えないといけないと思って。エイチャンに付き合ってほしいとか、そういうことじゃないんだ」

 付き合ってほしいとか、そういうことじゃない—――だって?

 「そういう風に言えば、嫌われないで済むから?」

 と僕は言った。

 空廻は突然の僕の言葉に、少し驚いた様子だった。

 「そんなの信じられない。だって僕が誰かを好きになったら、その人と付き合って色々したいと思うから」

 「それはエイチャンの考えだろう。ボクは違う。」

 「それじゃあ僕がYESって言ったらどうするつもりだったんだ」

 「…っ」

 空廻の何かを我慢するときの小さく唇を噛む癖は小さいころから変わっていない。

 空廻はうつむいたまま

 「じゃあ……」と言った。

 「じゃあ、ボクと一緒になってくれる?これまで友達として過ごしてきた時間をすべて失ってしまうかもしれないけれど、ボクと付き合ってくれる?あぁ、ボクはこの怖さを10年も隠してきたのに。ボクは自分が成長するのが憎い。気持ちだけなら我慢できたはずなのに。こんな身体じゃなかったら、エイチャンをすぐに独り占めできたはずなのに。どうして。どうしてっ」

 そこまで言うと、空廻の目から大粒の雫が落ちた。そこから堰を切ったように、空廻は涙を流し続けた。それは、量にしてみれば10Lはないのかもしれない。けれど、10年分の想いを閉じ込めた涙は、世界中のどの涙より澄んでいるようにみえた。


 周囲はすっかり暗くなり、廊下の明かりも階段を下りるには少し心もとない。

 僕は空廻の手を取って慎重に歩いていた。

 「本当はね」と空廻は言った。

 「ほんとうはもう少しはやく部活が終わったんだ」

 「知らなかった。どうしてそんなことを?」

 「好きな人に自分のことを待っていて欲しかったから。一回だけでいいから」

 「もし今日空廻がやってこなくても、僕はずっと待ってたよ」

 「ありがと。それに」

 「それに?」

 空廻は僕の手を放すと、残り5段ほどの階段を一気に飛び降りた。

 廊下からくるりと身体を回転させると、僕のほうを振り返って言う。

 「エイチャン、人を待つの好きでしょ」

 

 僕と空廻の間にある問題は、ただカタチが合わないということだけだ。

 神様の采配が少し狂っただけなのに、人はその重みを一生背負わされなければならないのだろうか。

 それでも。

 だとしても。

 心のつながりは、いつか身体を超えていく。 

 いつだって大切なことは、僕の目には見えちゃいないのかもしれない。

 けれど、それは、肉眼で見えるものの話。

 もし僕と空廻の心のつながりが本当に大切なものであるというのなら。

 それは神様にだって隠し通すことのできる、たった一つの奇跡なのだ。



つづく。

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