第2話 雨の日の奇跡


 ろくでもない人間にはろくでもない人間関係がつきものだ。

 例えばそれが、学校などと言う逃げ場のない空間で構築されたものなら猶更言うまでもない。一方通行の関係だったとしても、出口のない場所では、それは十分に誰かを殺す凶器になりうる。


 ロッカーにあるはずの校内履きの靴が無くなっている。

 それ自体に驚きはない。もう何度もこんな目に遭っているし、誰がやったのかという見当もつく。

 ただ少し困るのが、ここまで登校してくる途中に雨が降って、校内の多くの場所が濡れているということだった。

 正直言って、面倒くさい。濡れた靴下で歩くのは、僕は世界で6番目に嫌いな行為なのだ。

 ほかにどうしようもないので、思い切って靴下を脱いで裸足になる。廊下に素足を下すと、ひんやりとした感触があった。

 うん、これはこれで、悪くない。

 自己満足に浸りながら歩きだすと、ざぁという音がして外に目をやる。強まった雨脚が校庭全体を強く打ち付けているのが見えた。もう少し来るのが遅れていたら、濡れるのは靴下だけでは済まなかったかもしれない。

 「一年のロッカーが遠くて良かった」と僕は一人で呟いた。

 こんな兄(正確には、従弟だけど)の情けない姿を楓に見せなくて済むのは、色々と。楓はああ見えて頭が良いから、僕の置かれた状況と、僕自身が今何を考えているかを瞬時に理解してしまうに違いない。

 そうしたら、別にやらなくていいことまで、楓はやってくれてしまうだろう。具体的に言うと、お得意の空手とジークンドーとその他もろもろの殺人拳法で、主犯の子たちを片っ端から締め上げたりする。

 想像してみてほしい。

「おたくの乱暴女生徒にうちの可愛い〇〇ちゃんが暴力を振るわれたザマス!」とかなんとかいって、自分たちの子供が陰湿な行為をしているなんてことも棚に上げて、鼻持ちならないオバ様たちが徒党を組んで学校に突撃してくる様子なんて見たいと思う?そして女生徒の暴力の理由が、靴を隠された兄の復讐のためだなんていう、妙に正義感のある中学生らしいものだったとしたらどうだろう。

 それに僕が楓のことを助けるならまだしも、役割的には、自分のほうが守られる立場にある。

 被害そのものよりも、後処理のほうが面倒な場合も多いのだ。

 それに、わざわざ楓に泣きつかなくったって、こういう時は大抵、おっすぅ今日もいい天気だなぁエイチャンとかなんとか言いながら——―「おっすぅ!今日もいい天気だなぁ!エイチャン!」——―この馬鹿が手を貸してくれるし。


 久居吾斗矛ひさいあとむ。それが彼の名前だった。いつからその名前を知っているのか……それさえも記憶が曖昧だ。

 当のアトムは、調子よく僕の背中をポンポンと叩きつつ、短く借り上げられたさわやかな髪形からは想像もできないくらいの満面の笑み。雨の中を疾走してきたのだろう、全身がびしょ濡れだった。

「やられたわ」

 そう言いながらアトムは濡れたままの手で室内履きを取り出した。

「いい天気なんじゃなかったの」

「いやぁ、いい天気だぜ、実際。俺にとっちゃ最悪なのはどっちつかずの曇りや小雨のほうよ。ここまで降られたらあっぱれって感じ」実際、廊下を闊歩するアトムの表情は晴れ晴れとしていた。

「着替えあるの」

「ねー」

「貸そうか」

「借りるわ」

 幸か不幸か、アトムと僕の体つきは似たような中背で、ジャージの貸し借りなんかは毎週のように行われている(僕が借りることは殆どないに等しいが)。


 教室にはほとんどのクラスメイトがすでに登校してきていた。どうやら僕たちが最後らしい。僕たちが裸足とずぶ濡れのコンビで入ってきた様子を認めると、殆どが無反応の中、くすくすと笑いだした奴等が何人かいる。当然、僕の室内履きをどうにかした奴等だ。

 僕とアトムは教室の隅にある席に座った。アトムは僕の一つ前の席だ。

 「懲りないよな、あいつらも」とアトムは言った。

 「仕方ないよ、僕が何のリアクションも示さないから」

 「怒りゃいいじゃんかよ」

 「そんな元気ないわ」

 僕がそう言うと、教室のドアががらりと音を立てて開いた。入ってきた小柄な男は担任の川内だった。僕らの学年では世にいう「熱血系」の教師という役回りである。

 「それじゃーホームルームを始めます!挨拶!」川内はそういうと裸足のままの僕と、ジャージ姿のアトムを見たが、すぐに視線を外した。


 それから少しして裏庭の池から僕の室内履きの水死体が浮上し、しょうもないいじめの実情が明らかになるまで、川内は一言も僕とは喋らなかった。あの教師は僕が置かれている状況を知っていながら、見て見ぬふりをしていたのだった。

 

 ろくでもない人間にはろくでもない人間関係がつきものだ。

 例えばそれが、学校などと言う逃げ場のない空間で構築されたものなら猶更言うまでもない。

 そしてそこが出口のない場所になってしまうのは、盲目な大人がその逃げ道を塞いでしまうからである。


 つづく。




 

 

 

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