あの日、死ぬべきだった僕。

瀬奈

第1話 ありふれた奇跡


奇跡が起こる確率を数字に直したら、いったいどんな数になるのだろう。

百分の一?百万分の一?それとも奇跡なんかこの世に存在しないという人の意見を参考に、思い切って0にしてしまおうか。

本当のところは誰にもわからない。

それでも確実に言えることがあるとすれば、それは僕がとある奇跡をひとつ、既に引き当ててしまっているということだ。


例えば、飛行機に乗っていて事故に遭う可能性は、0,0009%だと言われている。そんな低い確率が現実となり、空中分解を起こした機体が標高2000mの山肌に激突したとすると、いったいどれほどの人数が生き残ることができるだろう。

あの日の機内には2000人を超えた乗客がいたそうだ。誰もが目を覆いたくなるほどの凄惨な事故の中で、生存者はたった一人だった。

「三田英彦」という名前の、3歳にもならない幼児が一人だけほぼ無傷で生還したのだ。

……何を隠そう、その幼児こそ、12年前のこの僕だ。

人はそれを奇跡だと言った。失われたものの価値のことなど忘れて、世の中はただ助かっただけの命を称えてすらいた。

僕は知らぬ間に、自分で感じる以上の命の価値を他人に押し付けられていた。

物心ついてからというもの、あの事故の遺族は僕の顔を見ながら、僕ではないだれかを見ていた。

はじめのうちは何の問題もなかった。自分の存在が誰かの悲しみを癒すことができるなら、それでいいと思っていた。

それなのに、その時は突然訪れた。ある日気が付いてしまったのだ。あの遺族のうつろな瞳に移る自分の姿を、これ以上見ていたくはないと感じていることに。


……この話のエンディングは既に決まっている。そう、デッドエンド。語り手である僕は死ぬ。それはどうしても、避けようのないことだ。

それでも構わないというのなら続けよう。このありふれた奇跡の物語を。


一章


 テレビの朝7時のニュースが、今日は蒸し暑い日になります、と伝えている。

 いつも通りの朝の風景。三田家の食卓。

 「夏休みはいつからなんだ」

 側頭部の寝ぐせを押さえつけながらリビングのテーブルにつくと、ユーイチ叔父さんはコーヒーカップを片手にそんなことを言った。

 「14日とかだったかな、3年生はもう少し早いんだっけ?お兄ちゃん」

 自分で返事をするよりも先に、同じ中学校に通っている従妹の楓が叔父さんの言葉に反応する。楓はいつも一足先に起きて、テレビのリモコンの主導権を握っている。

 早い者勝ち。それが三田家の朝のルールでもある。

 「いや、一緒だよ。トースト齧りながら喋るなって、また叔母さんが怒るぞ」

 僕が朝食をかき込んでいる彼女を注意すると、はいはいと楓は適当に返事をした。

 サラダに手を付け始めた楓の口の端には目玉焼きの黄身がついていて、それも気になったけれど、なにも言わないでおく。

 まさしく、いつも通りの会話だった。

 騒がしいというほどでもないけれど、落ち着いているというわけでもない。

 本当の家族ではない僕を受け入れてくれた人たちの、嘘のない会話。ある種の怠慢さえも、僕にとっては心地良い。

 「今年も、いくのか」とユーイチ叔父さんは静かに言った。新聞を掲げていてその顔は見えない。

 「そのつもり」と僕は素っ気なく答えた。

 皿の上の目玉焼きを箸の先でつつくと、半熟の黄身が溶け出し、ベーコンの焦げ目の上を侵食していった。何かが流れているのをみていると、時間が過ぎるのがゆっくりになるような気がする。例えば川の流れているのをみた時の、自分の意識が今ある空間から切り離されていくような感覚。僕はぼーっとした頭のまま、白い皿の上で、黄色い川ができるのをじっと眺めてしまう。

 「毎年毎年、よく飽きないね」

 楓はそう言うと、チャンネルを占い番組に合わせていた。ポップなキャラクターが画面いっぱいに映し出されると、今日の運勢のランキングを発表しはじめる。

 ……僕自身、墓参りにはとっくに飽きているはずだった。どうしてこんな律義にあんな山登りをするのか、自分でも理解できない。

 今日の運勢、蟹座2位だって、という報告を今度は僕が適当に受け流す。

 「はいはい」

 「おい聞いてんのか」という楓の罵声も華麗にスルーして

 「たぶんこれは、僕だけの問題じゃないからね」とトーストを齧りつつ返事をした。

 「寝ぐせはねてるよ」

 楓が恨み言のようにつぶやくのと一緒に、外からセミが鳴き始めるのが聞こえた。

 「また、始まったな」

 ユーイチ叔父さんは朝の陽ざしが煌めく庭を眺めて静かにそう言った。

 「だね」と僕は答える。

 そう、また始まるのだ。

 あの日死ぬべきだった僕の、意味を持たない長い夏が。

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