イン・ア・ドリーム・オブ・ザ・デッド

川口健伍

1

 ゾンビだらけの世界でどうしてか、彼だけがまともだった。

 だから私は彼と逃げようとした。

 ここから出ていけるのならばどこへ行くのも同じだった。

 とにかく私は出て行きたかった。

 でもだからって――こんなところには来たくなかった。

 校庭を歩くクラスメイトたち。

 見知った先輩、後輩、先生もいる。

 全校集会ではなかった。

 そもそも私の高校ではいままで全校集会が開かれたことなんてなかった。そこそこの偏差値が保たれた地方の普通科高校では、そういうのが開かれるような表立った問題を起こしているほど、みんな暇ではないのだ。

 そんな彼らが、生気のない目をしてグラウンドを歩いている。

 足をひきずるような奇妙な歩き方で、しかし不思議とバランスを崩すことなく歩き回っている。

 まるで昨夜見たゾンビ映画のようだった。

 兄が五本千円で借りて来たなかで、唯一おもしろかった映画だ。

 ストーリーの始め、友人とシェアハウスに住んでいる主人公はゾンビ禍の広がりに気がつくことなく日常のルーティンを繰り返していた。

 私もそうだ。

 朝起きた。大学生の兄はまだ寝ており、両親はすでに出勤していた。

 朝ごはんを食べて私も登校した。

 自転車に乗る。イヤフォンをして音楽を再生する。

 アイドルソング。私は単純だから聞いているとすぐに元気になる。

 今日もがんばろうって思える。かわいい女の子ががんばっている、それだけで自分もがんばろうと思える。

 いまの私には、自分の単純さがありがたかった。

 ぐいぐいと自転車を加速させ、気がつくと学校に着いている。

 校門から自転車置き場までは押して歩くことになっている。

 私は自転車を降りて、歩き出す。

 気がつくべきだった。

 おかしいと思うべきだった。

 どうして登校中に他の生徒に出会わなかったんだ、と。

 にゃーお。

 門扉の上に猫がいた。虎猫だ。

 小さい猫だった。

 私が近づいても逃げなかった。人に慣れた猫。

 にゃーお。

「おはよう」

 かわいい猫だったので、思わずあいさつしてしまう。

「気をつけて」

 と、虎猫が女の子の声で喋った。よく知っているような、でも二度と聞きたくない、そんな気のする声だった。

「え?」

「校庭を覗いてみなよ」

 私は混乱した頭で虎猫の言葉に従っていた。

「なにあれ……?」

「ゾンビ」

「マジで?」

「マジで」

「おーはようー」

「あ、おはよう」

 私は振り向きざまに応える。

 にゃあ、と虎猫が鳴く。

 クラスメイトが自転車に乗ったまま校門を通る。

 自転車のちりんちりんに反応して、ゾンビが殺到する。

 あっという間に彼女の姿は見えなくなり、骨と肉の砕ける音が響く。

 数十秒後、ゾンビたちが興味を失ったように離れると、自転車を支えにしてクラスメイトが――ゾンビになった彼女が立ち上がる。

 そうして彼女はみんなと同じになる。

 もう誰だかわからなくなる。

 私以外はみんなゾンビになってしまった。

 虎猫が言う。

「そんなことはないよ、ほらあそこ」

 虎猫が指差すのは校舎の一角。二階の一番奥の教室。

 窓が開いているのか、カーテンが揺れている。

 不意に教室の電気が点いたり消えたりを繰り返す。

 意図的な点灯だとわかる、性急さ。

「あそこに誰かいるのね」

「そうだね」

「あ」

 その時だった。

 カーテンの隙間から、周囲を窺うように人が顔を覗かせた。

「え、あれって」

「ゾンビじゃないよ」

 虎猫が断言した。

 私もそう思った。

 彼は違う。私にはそれがわかった。

「助けに行かなきゃ」

 矢も盾もたまらず走り出そうとした。

「待って」

「何よ」

「気をつけてね」

「言われなくてもわかってる」

「それはどうかしら、ね」

 虎猫が三日月様に口を歪ませる。

「どういう意味?」

「だって、いまのあなたは浮き足立ってる。そんなのゾンビの格好の餌食よ」

 がおー食べちゃうぞ―、と虎猫は笑っている。

「だから落ち着いて、慎重に、ね」

「ありがとう」

 そうする、と深呼吸をひとつ。

 できる限り静かに自転車を駐輪場に置く。

 そして、ゾンビだらけのグラウンドへとそろりそろりと歩き出す。

 私は知っている。

 ゾンビは音を立てると襲ってくるけれど、こちらが目立たないように静かにしているとそれほど怖くない。

 すれ違うときに、よく知った顔や仕草が思い出されてすこし懐かしいし、なんだか不思議とあったかい気持ちにすらなることもある。

 ゾンビだって悪くない、なんて考える。

 でも、それも一瞬だ。

 すぐにその醜悪さ、歪さに顔を背けてしまう。死臭なのか腐臭なのか、こんな空気の中で息をし続けるのなんて、とうてい無理だ。大声で叫び出したくなる。

 でも、――でもそんなことをすれば死んでしまう。すぐにゾンビの仲間入りだ。それだけは嫌だ。

 だから私のような単純さだけがウリのふつーの女の子は、ゾンビだらけの世界で生き延びるためには、たえまない観察が重要なのだ。

 静かに、ゾンビたちの動向を窺い、誰に与することなく(そしてそれを悟られないように)、私はいままで生き延びてきたし、これからもきっとそうして生きていく。

 けっこう最近までそう思っていた。

 彼と出会うまでは。

 月並みな言い方だと思うけれど、本当にそうなのだから仕方ない。

 彼は、彼といるときだけは私は擬態せずにすんだ。

 私が私のままでいられた。

 本当だ。

 そんな私を彼は受け入れてくれた。

 だから、今度は私が助ける番だ。

 依然として走り出したくなる気持ちを押さえつけて、私はできる限りゆっくりと廊下を歩き、階段を登り、ゾンビたちをぎりぎりでやり過ごしながら教室を目指す。

 細心の注意のおかげか、私はゾンビに見咎められることなく無事に目的の教室に着くことができた。

 そっと扉を開ける。

 ぬっと腕が伸びてきて、強い力で手をつかまれる。

「ひっ」

 喉の奥から漏れそうになった悲鳴を、とっさに手で押さえる。

 身体が教室にひっぱり込まれる。

 勢いがつきすぎて尻もちをつく。

 衝撃に驚いて目を白黒させている私の目前に、手が差し出される。

 見上げると、彼がすまなそうな顔をしていた。

 彼はゾンビではなかった。ゾンビであるはずがなかった。

 私は叫ぶように、でも声を落として言う。

「た、助けにきたよっ」

 どさくさにまぎれて抱きつくことも考えたけれど、手ですら握れない私にはとうてい無理な話だった。

「ありがとう。――でも、ごめん」

「え?」

「強くひっぱりすぎた」

「いいよ、だいじょうぶ。へーきへーき」

 ガッツポーズ。勢いよく立ち上がって無事であることを身体で示す。

 そっか、と彼が笑う。

 うん、と私はうなずく。

「でもほんとすごいよ、よくここまで来れたね」

「だって、わかったから」

「え?」

「電気。合図したんでしょ」

「そう誰か気がついてくれないかなって。やっぱり最初は誰からも反応がなくて……でも、君が来てくれて本当によかった。ありがとう」

 ははは、と私は笑って誤魔化す。マジ泣きそうだ。報われる。

「さ、ほら、ここから逃げようよ」

「うん、そうだね。ふたりで逃げれば、もう安心だね」

「そうなの?」

「そうだよー。だってけっこうぼく、きみのこと信じてるから」

「ハズい。さらっとそういうことよく言うよね」

「うーん」

「あ、ごめん。なんか私ひどいこと……」

 そういうことじゃなくてね、と彼は真剣な顔をして続ける。

「なんていうか……言いたいことをちゃんと伝えられる相手がいるなら、そこで言葉を惜しむ必要はないと思うんだ。言えることが伝えられるうちに、ちゃんと伝えておきたいっていうか――うん、きっとそういうこと」

 ちょっとかっこつけすぎかな、と彼ははにかむ。

 私もつられて笑う。そんなことないよ、と私は思う。

 彼の言うことはきっと大切なことで、でも――だからこそいまの私には素直に聞けなかった。私のサバイバル観を揺さぶるからだ。するどい切っ先を鼻先につきつけられたように、私は身動きが取れなくなる。

 でも同時に、きっと私はこの言葉を忘れないだろうと思う。知ることができてよかった、と思うのだ。私は単純で、だからこそいいなと思ったことはもっと素直に受け止められるようになりたい――。

 私の逡巡が伝わったのか、彼は話題を変えるように言った。

「それで、これ、どっちがいい?」

 どこから取り出したのか弓手にはモーニングスターが、馬手にはチェーンソーが握られていた。

「どっちも女子高生御用達の武器だね」

 思わず私は笑ってしまう。

「そうなの?」

 きょとんとした顔で彼は首をかしげる。あざといように見えるけれどこれが彼の素なのだからマジあざとい。

「そう、モーニングスターはタランティーノの人がいっぱい死ぬ映画で制服姿の栗山千明が使ってた」

「うんうん」

「それでこっちのチェーンソーはトム・クルーズ主演のSF映画の原作者の別の短篇SFで主人公が宇宙人をメッタ斬りにするのに使ってた」

「うんうん」

「って兄貴が言ってた」

「お兄さん、映画好きだもんね」

「私は好きじゃないけどね、あんなオタク」

「そんな言い方はだめだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 めっと彼は怒ったように眉根をよせる。

 わかっているけれど私はこういう顔にほとほと弱いのだ。

「ほ、ほら貸してっ」

 きゅーん、となっている顔が悟られないように私は彼からモーニングスターをもぎ取り、窓に向かって投げつける。

 ギャラララーッ、とチェーンが延びて、禍々しい鉄球が窓ガラスを木っ端微塵に粉砕する。

 いつのまにか夕闇が染み通った空に、ガラスの破片がキラキラと落下していく。

 勢いそのままに、投擲したモーニングスターはグラウンドに突き刺さり、周辺にいたゾンビたち(部活の先輩後輩)を一撃で吹き飛ばす。

 手元に余ったチェーンを窓枠に固定して、彼からチェーンソーをもらい受ける。

 どるるんっ、どるるんっ、とエンジンを始動。

 どっ、どっ、どっ、とお腹に響く音が、チェーンソーの準備が整ったことを教えてくれる。

 チェーンソーを肩に担ぎ上げ、窓枠に足をかける。

 そして、私は勇気を持って、彼に手をさし出す。

「逃げよう」

 彼はうなずく。

「うん、行こう」

 そうして私は、彼の手を引いてピンと張られたチェーンの上を駆け出す。

 もう恐いものはなにもなかった。

 圧倒的な全能感。

 身体の深い場所からあたたかいものが溢れてくる。

 どこかで高らかにファンファーレが鳴っている。

 頬を撫でる風が気持ちいい。

 チェーンの末端には懲りずにどんどんゾンビが集まってきていた。

 私は片手で思い切りチェーンソーを振りぬく。

 ひと薙ぎで五体のゾンビ(仲良しグループ)が吹き飛び、汚らしい血液を撒き散らす。

 グラウンドに着地。

 背後から近づいていたゾンビ(彼の悪友)の脳天にチェーンソーを叩きこみ、飛び散る脳漿から彼を守る。血液感染。ゾンビの鉄則だ。

 彼の手をぐいと引っ張り、反動でくるりと回転しながら周囲のゾンビ(クラスメイト)を薙ぎ払う。

 まるで爆撃でも受けているように、ゾンビたち(その他大勢の生徒)はおもしろいように吹き飛んでいく。

 しっくりと馴染んだチェーンソーを片手に、私と彼は踊るようにグラウンドを駆け抜ける。

 校門までもうすぐだ。

 あと五歩。

 唐竹割りでゾンビ(教師)を真っ二つに。

 あと三歩。

 逆袈裟にゾンビ(この世のあらゆる大人)を切り捨てる。

 あと一歩。

「どうもありがとう、連れてきてくれて」

 校門の上、今朝いたそのままに虎猫がそう言って笑った。

 気持ちの悪い、こちらの神経をわざと逆撫でする笑い方だった。

 虎猫の口が、カートゥーンのように大きくなってぺろりと彼を飲み込んだ。

 ぶつり、と握っている手だけを残して、彼の姿が目の前から消えた。

「ごめんね」

 彼の、その言葉だけが目に見えるように漂って、そして消えた。

 そうしてようやく私は状況を飲み込む。

 盗られた――虎猫に彼を盗られた。

 目の前が怒りで真っ赤に染まる。

 虎猫が笑っている。

 私は迷わず、いままで一番するどい太刀筋で、明確な殺意を込め、虎猫を肉塊に変えるべく、チェーンソーを校門へと叩き込んだ。

 校門が粉砕する。

 同時にチェーンソーのエンジン部から黒煙が吹き出す。オーバーロード。

 彼の加護がなくなって、私はただの女子高生に戻ってしまった。

「ありがとね」

 すでに懐かしさすら感じる相棒に、私は別れを告げる。

 土煙が晴れると、そこには砕けた校門がその残骸をさらしている。

 どこにも虎猫の姿はなかった。もちろん彼の姿もなかった。

 チェシャ猫の笑いが背後に漂って消えた、ような気がした。

 私に残されたのは彼の切断された腕だけ――それも見る見るうちに砂になって握ったはしから消えていった。

 月明かりすらない、底冷えする夜闇を見上げて、私はどうにか身体を支えて立っている。

 そうしていないと視界が滲むに任せて座り込んでしまいそうだった。

 ひどく疲れていた。

 これが夢なら早く覚めて欲しかった。



 ベッドの上に身体を起こして、パジャマの袖でごしごしと目元をこすった。

 これは――くやしいからでも、かなしいからでも、さみしいからでもないんだ、と私は強く思った。そうだ――夢のなかだったけど彼を助けられなかったから、それが残念なんだ、そうだ、そうしよう――無性にアイドルソングが聞きたくなって私は枕元のiPodに手を伸ばした。デジタル表記の目覚まし時計が、母が起こしに来るまでには、もう少し時間があることを教えてくれていた。



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