逃避行

濁面イギョウ

呼吸も整わないまま、俺達は唇を重ね合わせた。


 じゅるるるると品の無い音が響く。今の俺達に外の秩序は介在しない。

 お前が許嫁との食事の予定をすっぽかして来た事も。

 俺が家に帰れば半グレの親父に殴られる事も。

 お前が膝立ちになり、俺が抱きしめてキスする、外の明かりで薄暗いこの廃アパートの一室には存在しない。

「はぁ……はあ……」

 口を離すとお前は顔を赤くして、苦しそうに息を取り入れた。初めてだったもんなこーゆーことするの。まあ……俺も初めてだけど。眉毛も八の字にして、大きな目が涙で一層潤んでいる。俺はお前のこういう時の顔が好きだ。

「気持ち良かったか?」

 俺は垂れちまった唾液を制服の袖で拭う。訊かれたお前は素直に一生懸命にこくこく頷いた。

「そりゃ良かった」

 俺はお前の隣に腰を降ろした。お前は珍しい畳に興味津々か。いぐさの匂いが意識的に鼻を通ってきた。

 天井を見上げると最早機能しなくなった蛍光灯がある。その高さが改めて、狭い世界に二人だけな事を教えた。

 人の目が無かった。人の声が無かった。人の気配が無かった。本当は人というものが無いかのようだった、この小さな逃避行先は。求めていた理想郷は数分全力ダッシュした後の郊外にあった。

 横でお前の光沢のある髪が揺れている。畳の目数えてんのか? それ暇な時やるやつじゃねえか? こいつの家では暇な時なんてなかっただろうがな……。

 だけど慣れない静寂の中では、いずれ不服な環境に戻らなければならない事実もまざまざと脳裏に居座った。このままこの場所に住む事なんてできない。俺は大した金なんて持ってないし、お前は……お前はちょっとわからないが、どうやったって最後は詰む。そもそも、お前はお前の生還を、俺と違って。

「楽しいねぇ」

 お前が俺の方を向いて微笑んだ。長い睫毛が細めた目のアーチを可憐にした。俺がもう少し意思強固で意地悪だったら『何が楽しいんだよ?』と言うところだが、お前の笑顔で俺は溶けちまってる。

「ああ。」

 俺も笑った。お前の隣だと俺も上手く笑えた。

 床についたお前の手に、そっと俺の手を重ねる。そしてもう一度、俺達は互いの唇を重ね合わせた。

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逃避行 濁面イギョウ @nigoritsura

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