偏頗

清野勝寛

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偏頗




「君の、その……あ、足を、もっと良く見せてくれないか?」

 男の台詞を聞いた時、私の背筋を得体の知れない何かが駆け抜けた。おぞましい、気持ち悪い。生理的に受け付けない。本能が拒絶している。ラーメン屋で昼食を食べている時、ふと足下に視線をやると、言葉にするのも憚られる、名状しがたいあの黒い虫が床を這って蠢いていたのを目撃したあの瞬間のような、そんな感覚。しかし、目の前の男の真剣な表情はどこか鬼気迫るものがあり、真っ先に思いついた感情を吐き捨てるように伝え、突き放すということが、出来なかった。もしかしたら、私はこの目の前にいる変態に、恐怖していたのかもしれない。

「交渉というのは、互いに利益があるべきです。貴方に私のこの欠損を見せるだけでは、不公平では?」

 何を、言っているのだろう。心と思考、そのどちらにも従属することなく、私の口から言葉が勝手に解き放たれた。言葉は空中を振動させ、男の耳にまで届いてしまう。

 私の言葉に男は眼鏡のフレームを人差し指でくいと持ち上げてから、そのままその人差し指を私に向けてこう言った。

「10分……いや、5分1万でどうだ?」

 狂っている。普通の価値観のある人間は、私の身体などにそんな高額なお金を支払ったりはしない。少しだけ男に興味が沸いた。だから私はその時、咄嗟にこの提案を呑んでしまったのだ。



 放課後の図書室には人気がない。私はホームルームが終わって直ぐ、この後男に好き勝手されるだろう右足を引き摺り、三階の一番奥にある図書室に陣取り、本を読むフリをした。

 読書など、出来るはずがなかった。男と約束を取り付けてからの一週間、私の意識は高揚し、どこか浮ついていて、記憶が曖昧模糊としている。

 約束の時間は16時ちょうど。漏れ聞こえる部活動の音で図書室内の些細な音など、一切聞こえなくなるだろう。閉鎖空間、逃げ場のないこの場所で男と二人、取引をする。こんな状況で何故気分が昂ぶっているのだろう、私は。ただ一方で最初に抱いた気色の悪い、もぞもぞと蠢く悪寒はずっと背中にへばりついている。相反する二つの感覚に支配されて、頭がおかしくなりそうだ。


 約束の時間15分前に、男は図書室にやってきた。当然、私達以外には誰もいない。

「ずいぶん早いですね、森安先輩。もう待ちきれない感じですか?」

「あ、いや、そういうわけでは……」

 私が言うと、男は頬を赤らめて顔を伏せる。真正の変態のくせに、純情な反応をするな、気色悪い。

 男のことは、調べがついている。三年一組、森安康太。成績はクラスで一番、学年で10番前後。友達がいない。クラスにこういう雰囲気の奴が二、三人は必ずいるものだ。当然女っ気もない。そんな男が、勇気を振り絞って私に交渉を持ちかけた。振り絞るタイミングを間違えている気がするが、こちらとしてはそんなこと、どうでも良い。

「や、ここで君に建前を言っても仕方ないな。……あぁ、待ちきれなかった。君のその……足を、自由にして良いかと思うと、この一週間は興奮して殆ど眠れなかったよ」

 男は頭を振ってから私を睨むように見据えてから、そう告白した。

「急になんです? というか、自由にして良いなんて、一言も言ってないですけど私」

「え」

 男は素っ頓狂な声を上げる。その慌てふためく姿はとても滑稽で、無様で、愚かで、醜悪で、奇怪で、より貶めたいという衝動に駆られた。折角なので、その衝動のまま、行動することにする。

「だってそうでしょう。貴方が最初私に提案したのは、足をよく見せろ、でした」

「そ、それは、そうだが……」

 男は顔を伏せ、明らかに落胆している。一体何を想像して一週間悶々としていたのだろう。気持ち悪い。

「わ、分かった……! じゃあ、交渉だ。5分二万、5分二万で、好きにさせて欲しい……ダメだろうか?」

 必死な表情が想像以上に下卑ていて、堪らず笑いが込み上げてくる。けれど愉悦にも似たその感情を、表情に出したくなかった。腹にぐっと力を入れて笑いを堪えながら仕方ないですね、と私は自身の左足に手を伸ばす。



 それは、突然の出来事だった。

 テスト明けの放課後、友人らと溜まった鬱憤を晴らすべく駅前へ遊びに出掛けようとしていた時のことだ。

 交差点で信号待ちをしていた私に向かって、真っすぐ、トラックが突っ込んできた。咄嗟に避けようとしたが、到底間に合うはずもなく、私はトラックに轢かれた。幸か不幸か一命は取り留め外傷も殆どなかった。一部を除いて。

 その時、トラックに轢かれた左足首から下は骨ごと粉々に砕け、再生不能になった。私の左足首から下は切断され、以降義足を付けて歩行しなければならなくなった。



 椅子の上で靴下を脱ぎ、義足の固定具を外す。男のいやらしく、艶めかしい視線と、熱い吐息が心底気持ち悪かった。その視線だけで、私は既に犯されているようなものだろう。義足を外すと、足首から下がない、千切れた足が露わになる。あぁ、何度見ても醜い。まるでぬいぐるみのような自身の足先を、除菌タオルで拭こうとしたところで、男が「あっ」と声を上げ、私の手を押さえ付けた。ものすごい力だった。この男が本気で私を押し倒したら、きっと私は抵抗することなど一切出来ないまま凌辱されてしまうだろう。

「ご、ごめんなさい…! えっと、そのまま……そのままでいいから」

「わ、かりましたから、痛いです……離して」

「あぁ、ごめん、つい……!」

 そんな男が、今や私の思うままだ。それがどういうわけか心地好い。丁度、椅子の下で這い蹲るような姿勢になった男の眼前に、足を差し出す。おかしいな、私に虫を愛でる趣味はなかった筈なのだが。

「じゃあ、5分2万円ということで。どうぞ」

 私が言うと、男は無我夢中で私の足先に自分の舌を這わせ始めた。ぬめりと、ぞわぞわと、蛆が私の足を這う感覚が伝わってくる。ねちゃねちゃと粘着質なその感覚が吐き気を催すほど気持ち悪くて、男の顔面を蹴り飛ばして拒絶したくなる。

「……楽しいですか、先輩」

 私がそう問うても、男は一切の反応を見せず、一心不乱に舌を這わせ口を窄めて啜っている。よく他人にこんな姿を晒せるなと、徐々に男を憐れむ感情が沸き上がる。それと同時に、いつの間にか私の息も上がっていることに気付いた。

「あぁ、これだ……この足だ……美しい……最高に、綺麗だ……ずっと、いつまでも、こうしていたい……」

 男は這い蹲って私の千切れた足を舐めまわしながらうっとりとした表情でそんなことを呟いた。

「……こんなものの、一体何が良いんですか。私には、理解出来ません」

「これが良いんだ。この形状が、まるで、君という存在を不自由にした枷のようで。……いや、もしかしたら、これは枷を嵌められて不自由だった君が、無理矢理にその枷を壊した代償、その証なのかもしれない」

「……ちょっと、何を言ってるのか分かりませんね……」

 お互いの上気した吐息と、舌が這う粘着質な音と、5分を刻む時計の針の音。時折外から漏れ聞こえる部活動の音、空は紅色を孕み、もう直ぐこの教室に夜を落とすだろう。

 後、一分で、この時は終わる。

 男は、5分で済ませるつもりなのだろうか。そこを舐めまわすだけで満足なのだろうか。

 なんとなく、この5分で男と別れてしまうのは、勿体ないような気がした。

 いやいや、何を考えているんだ。こんな変態、絶対近付かない方が良いに決まっている。決まっているのに。


 こうなってからの私を、憐れむ人がいた。

異常者だと蔑む人がいた。

君は君だよと受け止めてくれた人がいた。

気にしないで今まで通りに接しようとしてくれる人がいた。

けれど、「これが良い」と言ったのは、この男が初めてだったから。


だから、私は――。

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偏頗 清野勝寛 @seino_katsuhiro

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