第29話 橘紫恋の母親サイド
******* 橘紫恋の母親サイド ********
さっき、城央病院から帰って来た紫恋が、今までと違って生気が在ったわ。少し元気になったみたい。紫恋もやっと前を向きだしたわ。それに葵ちゃんが紫恋のために頑張ってくれているし。
そう言えば、葵ちゃんのお母さんからも電話があったわ。紫恋の担任の先生との間で何かあって、紫恋がうつ病になったんじゃないかって。それで大原良子のカードの使用状況を調べなさいよ。橘ファイナンスと何かトラブルが有って、それで紫恋を恨んでるんじゃないかって言っていたわ。
冗談じゃないわよ。それって完全な逆恨みじゃない。私が躊躇(ちゅうちょ)している場合じゃないわ。せっかく紫恋に生きようという気持ちが出て来たみたいなのに。その先生とかがいじめたら、また元の木阿弥じゃない。私が、紫恋を守ってあげなきゃいけないのよ。
そう、橘紫恋の母親は、葵の母親から、大原良子と橘ファイナンスとの関係を調べるようにさかんに言って来ていたことを思い出していた。しかし、夫の仕事に口出しするようで、躊躇(ためら)われたし、なにより、お客様の個人情報を自分の権力を使って興味本位で聞きだすことは、会社のコンプライアンスに反することであり、自分の夫の会社の信用にかかわることでもあったのだ。
しかし、紫恋の母親の母性はもはや止められないところまで来ていた。子どもを守ること以上に、優先されることなどないはずなのだ。それに、今日の紫恋の姿にすごく勇気づけられた。母親が、子どもに勇気づけられるなんて母親失格だよね……。
いままで、ごめんね。紫恋。
紫恋の母親は意を決して、最近よく愚痴を聞かされる債権回収課の課長に電話を掛けた。
「もしもし、田中課長ですか? わたし、橘の家内でございます」
「ああ、社長の奥様。私に直接電話とは、また何事でございます」
「いえ、最近お客様とのトラブル増えて、クレーム処理が大変だって愚痴っていたでしょ。その後、どうなっているのかなと思って」
「ああ、その節は、愚痴を言って申し訳ありません」
「それはいいのよ。うちの主人が厳しく取り立てるように指示しているんでしょ」
「ええ、こちらも法に乗っ取って処理するんですが、色々とね。返す気がないなら借りるなって話なんですけど」
「うちは、全て法に乗っ取って処理しているの?」
「ええ、それは間違いありません。強硬な手段は一切(いっさい)やっていません」
「じゃあ聞くけど、大原良子さんって人の債権はどうなっているの。私の知り合いで、ひどい目に遭ったって言ってきたから」
「大原良子さんですか? ちょっと待ってください。ファイルを持ってきますから」
私、とうとうやっちゃった。もう後には引けないわ。
「あの、交渉経緯のファイルを出したんですけど、法に乗っ取って処理されていますよ」
「あの、その経緯をもう少し詳しく教えてくれない?」
「そう言われましても、私からはちょっと。奥様からその大原さんに直接聞けばどうです」
「それが言わないのよね。もし何かあれば、私が主人に取り成してあげるって言ったのに」
「そうかも知れませんね。これは……、大原さんの方が分が悪いかな」
「なんなのよそれ、言いなさいよ」
「……しかし……」
「正しいなら正しいで大原さんに言ってあげないと。大原さんの口から橘ファイナンスの悪口が広まると困るでしょ。あの人、おしゃべりで攻撃的なんだから」
「ああ、確かに攻撃的かも」
「ほら、ごらんなさい」
「わかりました。くれぐれも私から聞いたとは言わないでください」
「もちろんよ。それがコンプライアンスに反することぐらい私だって知っているわ」
「それじゃあ」
そういうと、債権回収課の田中課長は、大原良子との交渉経緯を話し出した。
この大原良子は、去年の六月くらいからクレジットの支払いが滞り出したらしい。その原因が口座の残高不足で、引き落としができなくなったためなのだ。
しかも、そろそろカードの限度額に達してしまう。そう考えて係員が督促の電話を掛けたのだった。カード情報から学校の先生だという事はわかっていたので、少しお願いすれば入金してくれるだろうと係の者も考えていたらしい。
電話に出た大原は、そんな大金いっぺんに返せないと申し訳なさそうに言ったために、リボ払いに変更することを勧めたりしたのだが、ここ最近クレジット金額が増えているのを不審に思った係員が、クレジットの明細を確認したのだ。
そこに載っていたのは、最近ではホテルの高級レストランの支払い。その後キャバクラでの支払い。その後は高級ホテルの宿泊代なのだ。他のも調べてみると高級なブランドバックの支払いの後、キャバクラの支払いとかになっている。
係員は仕事柄、こういった利用明細から身を崩し、借金地獄に陥った男を何人も見てきている。これは明らかにキャバクラ嬢に貢いだ上に、店に一緒に出勤する同伴じゃないか。
どうする。このことを大原に言うか?
悩んだが、この女性のためだと思い、カードの利用状況を大原に告げたのだ。
「これって、あなたが利用したクレジットじゃないですよね。あなた、誰かにこのカード貸していますね。だって、このカードこんな風に使われていますよ」
それを告げた瞬間、大原の申し訳なかったような対応が、がらりと変わり怒りだしたのだ。
「わたしのカードをどう使おうと勝手でしょ」
「その通りですが、このカードを使ったのはあなたじゃないのは明白です。うちの方で筆跡鑑定をしてもいいんですよ。もっとも、今更私が使っていないといって、これまでのクレジットの支払は拒否できませんがね」
「なにを偉そうにいっているのよ」
「わかりました。カードの利用規約に違反していますので、カードのご利用を停止させていただきます」
「止(や)めて、そんなことしたら彼が怒るわ。私が彼に頼まれて貸したんだから。お金を使えないって分かったら、私の利用価値なんてなくなっちゃうのよ!!」
「……そうは申されても」
「お願いします。お願いします!」
「でも、あなたも他人の借金をもう払わなくて良くなるんですよ」
「それでも、お願いします」
「一応、利用規約違反という事で、カードの利用は停止させていただきます」
「もういいわ! 覚えておきなさいよ! どうなっても知らないんだから!」
「……と言うような会話が有って、カードを利用できなくしたんです。それから、百万円近くあった借金も、給料を差し押さえるって言って分割で納金してもらって、最近やっと完済してもらったところなんです。やっぱり学校の先生なんで、給料を差し押さえられてみんなに知られるのは不味かったんでしょうね」
話を聞いて、絶句していた紫恋の母も、電話口で話が終わったところで我に返った。
「ああっ、わかったわ。あなた達は悪くないわ。確かに悪いのは大原さんの方。でも、結局その男が悪いんだから、そこのところを理解してもらう努力も必要だったかな。まあそこの所は、本人に私から言っておきますね」
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