第9話

 ふり向くと、塩原くんが立っていた。右手にはコンビニのビニール袋を下げていて、おどろいた! というような、ねこみたいな目をしている。


「小平さんじゃないですか」


「えっと、いきなり押しかけるみたいなことをしてごめんなさい。あの」


「よかった」


「え?」


 塩原くんは玄関の鍵を開け、ドアを引いてわたしになかに入るように促した。


「小平さんに話したいと思っていたことがあるんです」


 塩原くんは会社にいた時よりも、落ちついた雰囲気を醸しだしているように思えた。わたしよりも年下なのに、どこか、年上でさえあるかのような。


 心に余裕があるからだろうか。わたしは息を吸って、それから、ちいさく吐いた。


「わたしも、ある」


 わたしは、塩原くんの部屋に入っていく。コンバースの黒が、玄関にきちんと揃えて置かれている。なかからは、男の子のにおいがした。いや、女の子のにおいも、わたしにはよくわからないのだけれど、すくなくとも、じぶんではないだれかのにおい。


 この部屋に来るのはこれが二度目だった。でも、初めてのような気分だった。


「買い物行ってたんだね」


「あ、はい。っていっても、コンビニですけど」


 キッチンの横を通って、リビングに通される。塩原くんは持っていたビニール袋から、アイスと缶チューハイとビールを取り出すと、冷凍庫と冷蔵庫にそれぞれ振りわけていた。


「アイスもう一個買ってくればよかった」


 ひとり言のように聞こえた。でも、わたしの耳にはっきり届くような声量で。わたしは部屋に一つだけある座いすのななめの位置に座りながら、


「気にしないで。すぐ帰るから」


 もう帰りたいような気がした。でも、その直後には、帰りたくないと思っていた。塩原くんはビニール袋をちいさくたたみ、それを、すこしだけ開けたクローゼットのなかに放った。


 ──小平さんに話したいと思っていたことがあるんです。


 さっき、塩原くんはそう言っていた。それは、意外なことだった。塩原くんが、わたしに用があるかもしれないとは、一度たりとも考えなかった。


「えーっと、それでですね」


 塩原くんはなぜだか座いすには座らずに、わたしの正面に床の上に正座した。


「ちょっと待って」


 遮ると、塩原くんは口を閉じた。


「わたしから話したいんだけど、いい?」


 会いにきたのは、わたしのほうだった。会えなければいいと思った瞬間もあったけれど、いま、こうして目の前に塩原くんがいて、たしかにうれしい気持ちになっている。


 話そう、と思っていた。わたしがどういう人間で、塩原くんのことをどう思っていて、これからどんなことを望んでいるのか、ということを。


「……いいですけど」


 塩原くんはそう言って、頭をぽりぽりかいた。その仕草は、なんだかとても子どもっぽく見えて、わたしは心の絡まりが一つだけ、ほぐれた気がした。


「あのね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛ではないうえに恋でもない故に 月宿 宵 @haruyasumi22

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ