第8話

 駅を出発した小平さんの徒歩の速度は、信じられないくらい遅かった。いったいどうすればそんな風に歩くことができるのかと思うほど、ちっとも進まない。できる限りゆっくり歩いたけれど、あっという間に距離が縮まってしまう。


 ひとを尾行するなんて、初めてだ。ちいさい頃、友だちにバレないように電柱のかげに隠れたりしたことはある。でも、あれはだるまさんが転んだみたいなものだったし、べつにバレたってかまわなかった。こんなことをしないで、早く小平さんに追いついて声をかければいいということはわかっている。でも、わかっていることはできることとおなじではない。


 もしも小平さんともう一度会うことがあったら、と考えることはいく度もあった。


 あの夜の続きがどこかに落ちているような気がして、でも、それの見つけ方もわからない。たぶん、この地球のどこかには落ちている、遥かなる宇宙の果てからやって来たいん石のかけら。それを探す人間がいないように、どこかにはあるんだろうな……と思うばかりだった。


 いま、そのいん石が目の前にある。ゆっくりと、手の届くところを歩いている。


 小平さんは仕事帰りのようだった。丈の長い、淡いベージュのコートを着ている。うしろから見て、ぼくの好きな髪型よりもすこし伸びたえりあしに、通りすぎていった時間を感じた。空を見上げるふりをしたりしながら、ぼくは小平さんの後をつける。


 小平さんは、ぼくの家のほうに向かっているようだった。そんなはずがないだろうと否定するじぶんと、そんなことってあるんだろうかと期待するじぶんがいる。ただ、どちらのぼくも、おなじようにどきどきしている。


 ぼくは、たぶん、期待しているほうのぼくは、起こりえないだろうと思っていたことも、とてもささいなきっかけで、起こるものだということを知っている。あの夜、小平さんがぼくの家に来たように、それは、ぼくの口が発したちいさなことばがその発端だった。


 この宇宙はいまも拡がりつづけている。図書館の天文学の棚にあった本で、そんな話を読んだことがある。それは、時間を逆戻ししていけば、宇宙はやがて極小の一点へと収縮していくということでもある。限りなく無に近い、あるんだかないんだかわからないようなちいさな、あまりにもちいさな点。人間の、じぶんの想像力の乏しさしか、ぼくにはわからなかった。


 小平さんがぼくのアパートに向かっているというのは確かなようだった。あの夜歩いた道を正確に、なぞるように歩いていく。その道順を、小平さんが覚えてくれていたということを、なぜだかぼくはみょうに嬉しく感じた。


 でも、と思う。でも、それならぼくはどうして彼女に声をかけないんだろう……。


 小平さんは勤めていた会社の先輩で、ことばを交わしたのは、業務に必要なものを除けば数えるくらいのものしかない。つまり、ぼくは彼女のことはまだなにも知らないに等しい。この前の夜の数時間、小平さんとした会話のなかで、ぼくは嘘をついた。その嘘は、たぶんだれも傷つけはしなかっただろうし、だれかを欺こうとしてついたものでもない。それでも、嘘は嘘だった。


 そのことがずっと頭に引っかかっていた。いつも通る道のわきに落ちているごみのように、それが気になってしかたがないくせに、見えないふりをしている。そんな風に、ぼくはないものとして扱うということを選んだ。でも、それはぼくにしか見えないもので、ほかのだれかがなんとかしてくれるということはない。それもちゃんとわかっていた。


 あ、とぼくはちいさく声を出した。


 小平さんが道を間違えていた。右に行かなければいけないところを、左の道に進んでいた。ぼくは足を速めた。そっちの道に行くと、ぼくのアパートにはたどり着けない。


「小平さんっ」


 まだすこし離れた場所から、ぼくは声をかけた。ふり向いた彼女の顔を見て、おどろいた。全く知らないひとだった。


「あ、ごめんなさい、ひと違いでした……」


 怪訝そうにちいさく頭を下げると、彼女は足早に歩きだした。

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