第7話

 見慣れないホームの風景が目にとびこんでくる。ついさっき、ほんの数分前まではたしかにあった推進力は、いまはもうどこにも感じられなかった。かわりに、ここからすぐに引きかえすための理由を探している自分ばかりがここにいた。


 いきなりこんな風に、前の会社の先輩が押しかけるみたいにしたら迷惑だろう。それに、わたしだったらちょっとこわい。もしかしたら、彼女がいて、いまも部屋にいっしょにいるかもしれない。転職活動だってしているだろうし、わたしにかまっているほど暇じゃないに違いない。


 ドアを開けた塩原くんを想像する。黒いスウェットを着て、ぼさぼさの髪でさっきまで眠っていたような顔の塩原くんは「なんの用ですか?」と突然現れたわたしにきく。


 なんの用だろう、これは……。


 自分でやって来ておきながら、わたしは、塩原くんに会いにきて、それからどうしたいのかということがぜんぜん、本当にぜんぜんわかっていなかった。


 改札を抜けると、あの夜に見た景色とよく似た、でもどこか違った景色が広がっていた。あの日、暗くて、しかも酔っていてよく見えなかったものが、いまははっきりと見える。


 駅前の、ぐるりと急なカーブを描くロータリー。タクシーの列。若者たちの集団。主張の強い、ファストフード店の看板に、スーパーの出入り口から吐きだされるひとびと。


 わたしはゆっくりと歩きだした。なにも覚えていなければよかった。でも、かすかな記憶のなかに、あの夜歩いたという感覚のある道は、目印に明かりがともっているみたいにわかった。しだいに重くなっていく足は、でも、どうしても止まらない。


 塩原くんと会って、もしもだ、とわたしは思う。もしも、万が一、親しくなるようなことがあったとしたら、それから、わたしはどうしたいんだろうか……。


 ふつうは、付き合って、結婚をして子どもを産んで……と、そういう発想になるのだろう。それがいわゆるふつうの幸せというものに繋がることを、わたしもわかっている。いつだったか、母がわたしに、「ふつうの幸せを手にしてほしいの」と言ったことがあった。あれは、どんなシチュエーションで、どんなことを母が伝えたがっていたのか、いまとなってはもうわからないけれど。


 そうだ、わからない。わたしにはわからないことがたくさんある。


 結婚をしたい、という気持ちも。


 子どもをつくりたい、という感覚も。


 社会的なことも、生物学的なこともふまえた上で、わたしは、そういう当たり前とされている(ような)ことに、しずかに背を向けている。べつに、かっこつけているわけでもないし、悲観的に考えているわけでもない。ただ、そういう姿勢が、しっくりこないというだけで。


 でも、それなら、とも思うのだ。


 それなら、塩原くんとどうしたいのか。どうなりたいというのか。


 塩原くんだって、会いにきた女がそんな風だったら困惑するに違いない。どうしたいのかよくわからないけれど、会いにきた。でも、だからといって、付き合いたいわけでも、ゆくゆくは結婚をしたいというわけでもない。わたしだったら、ことばを失う。


 歩きながら、そんなことを考えてふいに目の奥が熱くなってきた。それならどうして、わたしは生まれてきたんだろう。そんなことばが頭に浮かんでは、まばたきをする度にあわが弾けるみたいにぱちんと消えた。わたしの前に歩いているひとがいた。向こうから、自転車に乗ってくるひともいた。だれも、こんな風に息をしていないだろうと思ったら、またおなじあわが心に立った。


 塩原くんのアパートに着いた。あのまま、一生着かなければいいと思っていたのに。そうすれば、わたしは歩きつづける亡霊になれたかもしれない。めずらしい、足のある幽霊。見えるんだか、見えないんだかわからない存在に、わたしはなりたいしもうなりかけているのかもしれない。


 部屋の前に立ち、玄関のボタンを押す。ぽーん、という高めの音がドアの向こうで鳴った。なにも反応がない。もう一度押すと、さっきと全くおなじ、ぽーん、という音がした。なんの気配も、なんの動きも感じられなかった。もう、わたしはボタンを押さなかった。


 塩原くんの不在を、わたしは残念に思っていたけれど、それ以上に安心してもいた。わたしはちゃんとわかっている。


 傷つかないコツは期待しないこと。


 なにかの本にそう書いてあった。わたしはなん度もそのことを忘れて、これまでたくさんの失敗を重ねてきた。だからもう、ちゃんと、わかっているのだ。


 帰ろうと思って、足を動かそうとした。うしろから、だれかに肩をたたかれた。

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