7(わたしは魔法が使える)

 学校の帰り、バスに乗って母の病院へ向かった。

 バスに乗っているのはぼくのほかに、親子連れが一組だけだった。若いお母さんと、三歳くらいの小さな女の子だった。女の子はしきりに窓の外を指さして、そのたびにお母さんが何か言って笑っている。二人とも、何だかとても幸せそうだった。

 ぼくはそんな光景から目をそらして、ぼんやりと窓の外を眺めた。初夏の陽ざしに包まれた町は輝いて見えて、新品同然という感じがした。

 ――いつだったか、ぼくはお父さんにこんなことを訊いてみたことがある。


「お父さんは、どうしてお母さんと結婚したの?」

 その頃はまだ、お母さんは入院していなくて、症状が悪くなるたびに外来で診察を受けている状態だった。

 たぶん、待合室かどこかだったと思う。しんとした廊下がどこまでも続いていて、死人みたいに行儀よくイスが並んでいた。お母さんは診察中だった。

「ずいぶん、やぶからぼうだな」

 と、お父さんは苦笑した。

「だって、気になったから」

「……そうだな」

 お父さんは少し考えてから言った。

「お母さんは昔から、何というか、ちょっと傷つきやすいところがあったよ。普通の人なら気にしないことでも、想像以上に応えるようなところが。たぶんそれは、お母さんが人より優しすぎたせいなんだろうな」

「ふうん」

 ぼくはよくわからないまま、うなずいた。

「ずっと、男の子を欲しがってたな。男の子さえ生まれれば、それで何もかもうまくいくと思ってたみたいだ。古い家で育って、そういう価値観を持ったんだろう。それはちょっとした思い込みのようなものだったのかもしれないが、本人も知らないうちに大きくなりすぎてたみたいだ」

「だから、の?」

 ぼくはちょっとうつむくようにして、そう言った。ぼくはそのことを、自分の責任みたいに感じていたから。

「……いや、違う。それは違うよ」

 お父さんは首を振って、それを否定する。でも、その表情は磨りガラスを通したみたいに曖昧なものだった。ぼくは同じようにうつむいたまま、訊いてみた。

「お父さんは、いつかこうなるだろうって思ってた?」

「……たぶん、な」

「じゃあ、どうして結婚したの?」

 その質問に、お父さんは特にためらいもなく答えていた。

「こうなるとわかっていたから、かな」


 ――ブザーが鳴って、次の停留所で親子連れがバスを降りていった。車内には、ぼく以外の乗客はいない。ドアが閉まって、バスは何事もなかったみたいに再び走りはじめた。

 病院前で降りるまで、バスに乗っているのはぼく一人だった。そうしているとバスを独り占めにして贅沢というよりは、何だか息苦しい感じがした。いろんなものを無駄にしてしまっているみたいで、申し訳なくなるからだろう。

 目的地に着いてぼくが降りると、バスはそのまま何事もなく、誰も乗せずに走っていった。

 並木道を歩いて、いつものように母のいる病棟へ向かう。受付に行くと、そこには見知らぬ看護婦さんがいた。まだ若くて、新しく替わった人なのかもしれない。

「――あの、母に面会したいんですが」

 と、ぼくはその看護婦さんに言ってみた。

「どちら様で?」

 看護婦さんは訊き返した。はじめてのせいか、少しだけ冷たい感じがした。いつもなら、挨拶するだけで通してくれるのだけど。

「ここに入院している、奥津城の家族の者です」

「何か身分証のようなものはありますか?」

 言われて、ぼくは学生証をカバンから取りだす。

「それでは、ここに名前と、来棟時間を記入してください」

 学生証を確認した看護婦さんは、記入用の小さな紙とボールペンを渡してきた。

 ぼくが戸惑うようにそれを書いて渡すと、看護婦さんは記入内容の確認をしながら言った。

「面会者の記録はきちんと残しておかなくちゃならないんです。一応、ここは閉鎖病棟ですから」

「…………」

 看護婦さんはそれからようやく鍵を開けて、ぼくを中に通してくれた。明るいラウンジには、ほかに見舞い客の姿はながった。遠くのほうを見ると、廊下の同じ場所を何度も行ったり来たりしている人がいた。

 しばらくすると、病室からお母さんがやって来た。閉鎖病棟では、面会者は病室まで行けないことになっているからだ。

「嬉しいわ、また会いに来てくれたのね」

 なかなか上機嫌らしく、お母さんはイスに座るとにこやかに言った。胸にはいつもの男の子の人形を抱えている。

「元気だった?」

 と、ぼくは訊いてみた。

「ええ、もちろんよ。あなたは?」

「まあまあだよ」

 雨の日のあと、危うく風邪をひくところだったけれど。

「でもあなた、学校はいいの? 制服を着てるけど」

「もう授業は全部終わってるから」

「なら、早く帰ったほうがいいんじゃないかしら。会いに来てくれるのは嬉しいけど、が心配するんじゃないの?」

「――大丈夫。ここに来ることは知ってるから」

「そう? だったら、まあいいんだけど……」

 お母さんは本気で心配するように表情を曇らせた。ぼくは何でもないように笑顔を浮かべておく。ほかにどうしようもなかったから。

「困ったことがあったら、に言ってね。こうしてお見舞いに来てくれるだけで、私にはずいぶんありがたいんだから」

「うん、ありがとう。ぼくは本当に大丈夫だから」

 そう言うと、記憶のスイッチを刺激されたみたいに、お母さんは急にしゃべりはじめた。

「――実はね、この子は魔法が使えるのよ」

 そう言って、お母さんは胸に抱えていた人形を示した。それは何度となく聞かされた話だった。でも話すたびに、お母さんはそのことを忘れてしまう。

「世界を、自分の好きなように変えてしまえる魔法。だから大抵のことは、大丈夫なの。困ったことがあっても、すぐにこの子が何とかしてくれる。――でもね、そのことには秘密があるの。それはね、もしもこの子が男の子じゃなかったら、魔法は使えないってこと。男の子じゃないとダメなのね。それじゃ、魔法は使えない」

「……そうなんだ」

 ぼくはできるだけ、平然とうなずいてみせる。

 お母さんはそれから、その人形のことについて滔々と語りはじめた。その人形は、月の裏側にいた一人ぼっちの女の子に作られた。ある日、女の子が不注意で崖から落ちて死んでしまうと、人形は女の子と同じように一人ぼっちになった。だから人形は新しい持ち主を探して、旅に出た。でも月には人間は誰もいなかったから、人形は地球にやって来た。砂漠に降りてきた人形は……

 話が一段落したところで、ぼくは立ちあがった。

「ぼく、そろそろ帰らないと」

「――あら、もうそんな時間?」

 お母さんは残念そうに言った。きっと、まだしゃべり足りないのだろう。

「またしばらくしたら、来るから」

 ぼくはなぐさめるように言う。

「そう、楽しみにしてるわ」

 お母さんは笑顔を浮かべて、人形の手を振ってみせた。ぼくはちょっとだけ苦笑した。

 それから、お母さんは最後に言った。

「でもあなた、女の子なのに〝ぼく〟なんて言っちゃダメでしょ」

 ――でもね、ぼくが子供の頃、お母さんはそれを喜んでくれたんだよ。

 そんな言葉を飲み込んで、ぼくは病棟をあとにした。



 帰るとき、並木道の向こうには夕陽が沈んでいた。何もかもが、魔法にかかったみたいに赤く染まる。魔法を使えば、世界はこんなにも簡単に変わってしまう。人も、車も、街も、時間も。


 ――わたしは魔法が使える。


 だから、大抵のことは大丈夫だ。世界がどれだけ酷くて、無関心で、自分勝手でも。魔法さえ使えれば、そんなことはたいした問題じゃないのだから。

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ぼくは魔法が使える 安路 海途 @alones

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