4話

「門番の務め、御苦労である。そなたに命じる。余から直接の命なぞ、役の上下をないがしろにするものであるとは重々承知である。しかれども火急の用ゆえ、謹んで受けるがよい」

「はあ」

 この地の支配者たるおれの直々のお言葉に対して、不敬はなはだしいことに門番同心はさして感動も恐縮もせず、普段何を考えて何を食っているのかさっぱりわからない風情で、ぽかんとしていた。無論のこと、宗次郎を追いかけるそぶりなども見せない。

「委細伝わらぬようならもう一度話すが」

「あ、大丈夫す」

 どういう大丈夫なのだろうか。話さなくても大丈夫なのか、追いかけるから大丈夫なのか、私は宗次郎一派なのであなたのいうことは聞かなくても大丈夫という意味なのか。ぼんやりとしつつも、その場はひとまず収まった雰囲気を感じさせてくる、なんとまあ、便利な言い回しであろうか。今度からおれも家臣に諫言されたり、公儀に無体な普請を命じられたら、これで切り抜けることにしよう。

「さようであるか。では改めて主命を述べるが、先ほどこの門を通ったあれに見えるは我が三島家と民に仇なす三島宗次郎である。あのものを捕えよ。見てのとおり、宗次郎は満身創痍にて逃げ足も速くはない。そなたの体躯であれば造作もないことであろう」

「はあ」

 どうにも張り合いがない。暖簾に腕押しとは、むかしの人はうまいことをいったものである。何を考えているのか、何も考えていないのか、ただ流れに身を任せて生きているだけなのか、美空ひばりのファンなのか。

「何か承知できぬ事情があるというのであれば、なんなりと申してみよ」

「はあ。そんじゃま、ちょっと思ったんすけど――」


 門番同心の若い男がいうにはこうである。まず、おれが宗允であるかどうかがよくわからなかった。いわれてみれば、いまのおれは伴連れもなしに粗末なぼろ布をまとって、血と泥にまみれている。たしかに、平素にこんな人間と出くわしたら、なるべく目を合わさないようにやりすごしたくなるのが尋常な反応というものだろう。かろうじておれがおれであることを主張できる根拠としてはちんちんがないことぐらいか、タハッ。

 櫓にはこの若い男以外にも数名が詰めているそうだが、最初におれと宗次郎を見かけたとき、宗次郎が不審者に追われていると考え、直ちに救出に向かおう一度は思ったそうである。しかし、そこでふとだれかが「ところで玄冬殿はどうしたのだろう」と発言した。宗次郎が城に入って以来、片時も玄冬がやつの傍らから離れたことはなかったそうで、「もしや玄冬殿はあやつにやられたのでは」と判断したのはしごく自然な発想である。そうして、「玄冬殿を倒すほどのものであれば、我らが出たところでなんになろうか」という意見で一致し、最終的に彼ら一同はこの櫓に身を隠して息をひそめながら、かといって知らんぷりというのも薄情なので、この場所から当主の無事をもっとも強い表現でお祈りするのが最善であるという結論に達したとのことである。

「なるほど。たしかにいまの余の姿はお世辞にもふさわしいものではなかったかもしれぬ。だが、こうして余が戻った以上、そなたらの主は余であり、もはや宗次郎に与する理屈もなくなったはずだが」

「そのことすけどね――」


 門番同心の若い男がさらに説明するにはこうである。たしかにおれが生きて帰ってきたからにはおれが当主の座に戻る可能性はそれなりにあるが、とはいえ、形式的には現在の当主は依然として宗次郎であり、であれば宗次郎に表立って刃を向けるというのはとんでもない大逆行為であり、たとえおれが当主に戻ったとしても、あとからどんな誹謗を受けるかわかったものではないと訴えた。それでおれが「いや、そんなことにはならないように余がとりはからう」となだめたが、門番同心は、しかしお上が何をいってくるかがわからぬと自説を曲げない。

 というのも、そもそも宗次郎が当主になれたのがひるがえって考えれば不自然なところもあり、子供のおにごっこか何かでもあるまいし、おれを殺したやつが自動的に当主になれるなんてシステムがあるわけもなく、実際の運用としては公儀に対して「次期当主の予定者が死んだけど、次はこの人にしてもいいですか」とお伺いを立てて、それが承認されて初めて三島家当主になれるのである。お上が「そいつの評判最悪って聞いたけど」なんて難色を示せばそれまでである。養子の口を待ってくれるならば御の字、ことによっては三島家に対して解散命令が出ても不思議ではない。

 しかし、そうはならなかったということは、宗次郎のやつは仮におれがなきものとなった場合に、自分が次期当主になれるよう、公儀に対してあらかじめ十分な根回しをしていたことは想像にかたくない。金もだいぶばらまいたのだろう。つまるところ、宗次郎のバックには公儀がついているので、正当な当主であるおれに忠誠を誓いたいのはやまやまではあるが、ぶっちゃけた話をするとおれが公儀にどれくらい覚えがいいのか判然としないところがあり、軽率な行動は躊躇される、というのが門番同心の考えであった。

「つまり、そなたがいうところによれば、余と宗次郎のどちらに分があるか判然としないため、どちらに加勢すべきか様子を見ているというわけか」

「はあまあ。虫のいい話に聞こえるかもしれませんけど、ぼくらにも生活がありますんで。すんません」

「しかしだな、余はあの玄冬をも倒したのだぞ。余に分があるとは思わぬか」

「お言葉ですが純粋な個の武力だけでもって民衆を従属させるなんて、戦国時代ですらあり得ませんよ。ここで宗允様が宗次郎様を殺めてしまったら、お上は『いまの御時世にそんなやんちゃなやつがいるのか』と問題視すること間違いないす。太平の世の中、穏便に済ませたいんす。ただ、そうはいっても局所的には宗允様が押しているのは確か。それが大局にどこまで影響するのか。難しいところですんで、このあたりでAIの形成判断でも確認しときましょうか」


三島宗允 60% [■■■■■■□□□□] 40% 三島宗次郎


 おれはあの死闘を生き抜き、この一戦、優勢~勝勢ぐらいはあるとほのかに期待していたのだが、思ったよりも差はないようで、だいぶがっかりした。

「こんなもんかね」

「AIは宗次郎様とお上の関係を高く評価しているんでしょう。ただまあ、数字の上ではこんななってますけど、実戦的には、宗允様が勝ちやすい局面ではないかと」

 門番同心はお世辞をいったりした。身分の違いとか礼儀作法に全く頓着しないタイプの人間かと思っていたが、こいつなりには気遣いの心はあるらしい。

「なるほど、もっともな意見である。ついでにその見識を見込んで尋ねるが、余はここに来るまでに宗次郎の手下を何人か殺めた。あんまりよくなかったと思うか」

「微妙なとこす。正当防衛にしてはいきすぎだと思いますし。ですが、秋霜烈日なお上とはいえ、実際に動かしているのは血も涙もある人間なわけす。多少は宗允様の事情を酌んでお目こぼしがあるとは思います。ま、それもこれも宗允様が宗次郎様よりもお上に好かれているかどうかってわけすけど」

 おれは公儀がおれに抱く印象を想像しようとしてみた。三島家は規模や家格としては中の下かそのぐらいのものであり、おれの親父が何かとんでもない不祥事を起こしたということも、全国規模の業績を残したという話も全く聞かない。公儀の重役たちからすれば、三島家なんて十把一絡げの国の一つで、ましてや、その次期当主のおれの評価といわれても何もないのが正直なところではないだろうか。

「いま、ちと考えてみたのだが、お上からすれば余の存在など認知すらしていない公算が大きく、しからば余の評価はプラスもマイナスもないゼロ。それに比べれば、こういう状況になったことを踏まえれば、宗次郎のやつはお上に名が通っており、したがってプラス寄りのような気もするが」

「ま、そこはぼくにはよくわかんないす。お上が宗次郎様を当主に認めたのも、宗次郎様の権謀術数の結果かもしれませんけど、そうではなくて、お上は単に『三島家? の、当主が宗允じゃなくて宗次郎? だれそいつら? とまれ、よきにはからえ』と思ってるだけかもしれませんし」

「ふむ、さようか。や、待て。宗次郎が何か工作した可能性があると申したな。やつが何かをたくらんでいるかもしらんわけか」

 宗次郎は子供のころから悪知恵がはたらくやつで、おれも何度煮え湯を飲まされたかわかったものではないことを思い出し、やはりあいつは嫌なやつであるという信念をいっそう強固にした。

「すね。お上が三島家に興味もってないんであれば、宗次郎様を成敗して宗允様がやはり三島家当主にになるのだと訴えても、お上からすれば『あそ』で終わる話かもしれません。けど、宗次郎様がお上の一部の連中と共謀して何か悪だくみを計画していて、それで生じる利益を仲良く山分けするとかって絵を描いてるんであれば、話はややこしそうす」

 おれは宗次郎がくわだてた陰謀を推測しようとしたが、くやしいがこういった方面についてはきゃつの方が一枚も二枚も上手ゆえ、どうにもおれの手には余るようだった。しかし、おれの回らぬ頭でもわかることは、宗次郎が公儀の重役のいくらかとなんらかの密約を結んでいるという仮定のもとでは、おれが宗次郎をぶっ殺してしまえば、その目論見はすべて水泡に帰すということになる。

「それで悪は滅びためでたしめでたしとなればよいが、現実問題としては、宗次郎とつるんでいた一味は、当然その悪事が露見せぬよう、あるいはまた意趣返しとして、余を亡き者にしてくるだろうな」

「す。この機会に宗允様がそういった悪人どもを一網打尽にするというのであれば、大変ご立派なお話にはなりますけど、どうすか」

「うむ……」

 正直、おれがそこまでやらねばならぬ義理があるだろうかとはにゃほにゃ我が身を振り返ってみたが、別段、なさそうだった。第一、宗次郎ごときが玄冬という超人を用意できていることをふまえれば、公儀の重役連中ともなればどんな妖怪変化や魑魅魍魎をそろえているのかわかったものではない。ちんちんが何本あれば事足りるのか、想像しただけでもげんなりしてくる。

 そこでおれ、はた、と膝を打った。なるほど、攻略Wikiを覗いて知ったが、クリアルートの一つに一致団結ルートなるものがあった。宗次郎率いる集団なぞたいしたものではなかろうに、何を仰々しい、と釈然とせぬ思いがあったが、これが公儀に巣食う獅子身中の虫なる奸臣らも含めた陣営との戦いと考えればまこと合点がいく。たしかに、このルートはたいそう壮大なものに違いあるまい。悪はすべて滅び、もろもろの謎や陰謀がきれいさっぱり解決されるトゥルーエンド的なものであろう。

 しかしいまのおれには圧倒的に戦力が不足している。ちんちんはないし、怪我してるし、徹夜明けだし、それに、三島家の家臣らとて宗次郎討伐には協力するだろうが、公儀に弓を引くところまでついてきてくれるかははなはだ心もとない。

「そなたも玄冬の恐ろしさは知っておろう。自らの手柄を臆面もなく明かすのはさもしいことだが、それでもいわせてもらう。余はあの男を倒したのだ。これは並々ならぬ苦労であった。その上、公儀にはびこる巨悪の是正など、あまりに短期間のうちに大きな手柄を独り占めしては、節操のなさを疑われたり、強欲とのそしりを受けぬとも限らぬ。それは余の本意ではない」

「はあ」

 おれはお上の中にいるかもしれない悪人連中と戦うのはしんどいな、やりたくないな、ということを、なんとかおれの口から明言せずに察してもらおうと言葉を選んだ。

「それに、公政を司る面々はおよそ余なぞ及ばぬ仁徳と才覚を兼ね備えた方々であって、ともすれば悪道に映るとも、我らのような小人には思いもよらぬ高度に政治的な判断があるのやもしれぬ」

「要はやりたくないんすね」

「うぐっ……。ま、まあそのなんだ、機が熟しておらぬようだ。誤解せんでもらいたいが、今生ではやらぬがいつかはやるときがくるだろうとは深慮しておる」

「すか」

 おれが当主に返り咲けるかどうかはまだ未確定な部分もあるが、仮にそうならなかったとしても今後の扱われ方を考慮して、家来どもになめられるのもよくないと思い、どうにか体面をつくろうことを心掛けた。もちろん本音はバレバレかもしれぬが、あとで発言録を読み返されたとしても少なくとも最低限の建前は維持できたようであるし、さらにいえば、そのことに努力したことぐらいは伝わったような気がする。

「しかし、そうなると宗次郎のやつを討伐するのはあきらめねばならぬかの。あのようなやからを見逃すというのも浮世間のためにならぬのだが、天の利を得られぬとあればしようがあるまい。苦汁の決断だ」

 おれは宗次郎のやつを殺すのはまずくとも、半殺しか、せめて四半殺しぐらいにはしたかったのだが。

「残念すね。ここだけの話、ぼくらも宗次郎様はどうかと思ってましたんで、あの人、笑いの感覚とか音楽のセンスとかそのへんチャレンジシブルすぎますんでちょっとついていけませんで、宗允様がぶっとばしあそばれればスカッとすると期待してましたんで」

「いうな! 余とて辛いのだ……。ちんちん取られたんだぞ、ちんちん。十年飼っていた犬のタロウが死んだときなぞまことに悲しかったものだが、この痛みと悲しみはそれ以上かもわからぬ」

「そうすか。つまり宗允様としてはおちんちんを取り返すのが最優先課題なわけすね」

「うむ。ともあれちんちんを取り返さねば、宗次郎のやつは図に乗ったままであろう。やつのしたり顔なぞ、子供のころから今日までにわたり、もう一生分は見たわ」

 あのアホのお調子ぶりと得意満面な顔は飽きるほど見せつけられてきた。つい先ほども玄冬におれを始末するよう指示したときのやつの表情ときたら思い出してもうんざりする。半年ほど前ですらそんなことがあって、法事で親戚連中が集まって、だれからともなく「モノポリーしよう」ということになった。結論をいうとおれは水色をぼちぼち経営しつつ苦心の末オレンジを二枚そろえたところでアホが経営する家三軒ボードウォークを短い期間に二度も踏んで盛大に飛んだ。茫然自失となったおれを横目に、宗次郎の野郎は我が世の春とばかりにはしゃぎまわった。聞けば、後日に高名な書家に大枚はたいて「ボードウォーク」という書を頼んだというのだから呆れるよりほかなく、やはりこの痴れ者をのさばらせておいては世のためにはならぬ。おれはしばらくは夜寝る前などにこの日の敗北を思い出しては「ぐおっ!」と人知れずもがいたものであった。


「したら、その気持ちをアピールすれば周囲もわかってくれるんじゃないすか」

 門番同心は相変わらず懐手と貧乏ゆすりをやめないでいたが、しかし、こいつなりには宗次郎よりかはおれの加勢をしたいふうでいる。

「そらな、ちんちんを奪還してついでに宗次郎のアホンダラを気が済むまでボコボコにしてやりたいというのが本音であるが、余のような身分のものが大騒ぎするには相応の大義名分というものが必要なのだ。つまるところ、ちんちんという極めて個人的な動機ではなく、三島の民らを暴君宗次郎から救うというようなお題目を掲げねば、世間は眉をひそめ、後世では笑いものになろうぞ」

「でも、今回の場合は宗次郎様を成敗するとかなると、厄介なケツモチが出てくるかもしんないわけじゃないすか。すから、三島家とか天下とか仁とか義とか、そんなしゃらくさい建前なんかきれいさっぱりわすれて、あくまで個人的に宗次郎様をやっつけるって立場を取ればいいじゃないすか。そんなら、ケツモチのやつらだって『なんか宗次郎をボコったけど、うちらの悪事とは全く関係のない個人的なうらみみたいだしほうっておくか』って見過ごすんじゃないすか」

 おれは「ふうむ」と腕組みして考えた。たしかに、門番同心がいうことには一理ある。いや、一理どころかしごくもっともな意見のように思える。生まれてこの方、礼儀作法だの社交辞令だのといった建前ばかり身辺にまとってきたが、いわれてみれば、嫌なやつを殴ることにもっともらしい理屈を糊塗する方が、かえって卑劣なように思えてきた。宗次郎のアホは気に食わんから殴る、それできれいさっぱりおしまいにしてしまえばよいではないか。

 父が病に倒れてからここ半年ほど、おれは父に代わってこの地で政を執ってきたが、正直な話、殿様稼業というやつは想像していたよりもたのしくはなかったし、想像していたよりも大変だった。おれの性に合っているようにも思えない。それに、おれは物心ついてからほとんど江戸で暮らしていて、この三島の地に格別な愛着ももっていない。むしろ、江戸暮らしの方が顔なじみやら行きつけの店やらもあってよほど住み心地がよい。ましてや、愛着でいえばおれのちんちんとは比ぶるべくもない。

 試しに、三島家当主の座なぞかなぐり捨てて、江戸に戻って日々をへらへらとおもしろおかしく過ごして平均寿命まで全うできるかを計算してみた。家賃については三島家の江戸屋敷の一角を勝手に使えばタダであるし(こんなことは宗次郎のやつをどやしつければたやすいことである)、遊郭だの陰間茶屋だのに通う必要もないのでこれもすっぱりゼロになる。なんだ、そうなるとずいぶん余裕がある。しかもここだけの話、おれは三島家の財政が芳しくないという噂を察知してから、なじみの商人を抱え込んでせっせとへそくりに励んでいたのである。実際、当主を代行してわかったのだが御家はすさまじい火の車であり、くだんのへそくりは我ながらえらかった。その金は当の商人に預けていて、なおかつ、その蓄財の過程において商人にも見返りを与えつつも危ない橋を渡らせて、おいそれとはおれを裏切れぬ立場に縛りつけたのである。そういうわけで、その金はいまでもおれが思うがままに使うことができ、しかもその額はおれ一人を死ぬまで養うには十分すぎる値であるという試算に達した。日に二合の酒をかっくらっては宗次郎をこき下ろし、気が向いたときにでも寺子屋だの町道場なんぞに顔を出してガキどもに読み書きヤットウを教えてありきたりの訓話をたれて、せがまれたらもったいぶりながらも玄冬との死闘を話してやって、うぶな市井の方々に「先生、先生」なんてちやほやされるのもまんざらでもない。

 おれの腹は決まった。三島家なぞ宗次郎にくれてやり、おれは江戸で余生を過ごすことにした。途端に、頭の中にかつて足げよく通い詰めていたさまざまな店やら、お気に入りの観光スポットやらが浮かんできた。あのへんにうまい鴨を食わせる店があったが、まだやってるだろうか。ちんちんを斬られたときは辛かったが、禍福は大天使アザナエルが御心のまま、結果論ではあるが悪くはない未来が見えてきたようだ。

「はなはだ遺憾ではあるが断腸の思いでもって、宗次郎のいくらかもわからぬ良心と善性を信じ、余は潔く身を引こう。やつとて三島家の人間、地位が人を作るという言葉を信じ、我らが三島家が育んだ優れた家臣らの輔弼こそあれば、どうにか民らを飢えさせることもなかろう。それが天の意思というのであれば受け入れざるを得まい」

 おれはなるたけ威厳に満ちた苦渋の表情を心掛けなら、厳かに辞意を表明した。しかし、心はもう江戸での放蕩三昧でうきうきであった。門番同心のやつは「ご立派す」とみじんも心のこもっていない口調でおれを褒めたあと、「ぼくもこれが終わったらいまの仕事辞めて江戸に行こうと思いますんで、そんときは宗允様のとこにあいさつに参りますんで、お茶の一杯でもください」といった。その言に対し、おれはやはり眉間にしわを寄せながら、さも重大な決定を下したかのように荘厳な所作でうなずいてやった。結局、殿様稼業で身についたことといえば、こんな虚礼的芝居ばかりであったか、嗚呼。

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