3話


 おれの殺人おしっこをこともなげに避けた玄冬は、けれどもみじんも慢心したふうでもなく、あいかわらず一定の距離を維持しつつおれの出方を待っているようであった。

 玄冬とやらがどんな生い立ちの人間で何を考えて生きてきたのかは知らぬが、だれだって死にたくはない。やつは相手が妙な秘儀だとかいちかばちかの大技だとか、そういう不意の攻撃を警戒しているのかもしれない。いまのおれと玄冬との間合い、これだけ離れていれば矢でも鉄砲でも避ける自信があり、そして実際に今日まで生き延びてきたというわけか。

 やつとて一つしかない命は惜しいに決まっているのだ。まして、ちんちんをなくしたおれはここで死んでもどこかで諦められる気持ちもあろうが、先ほど披露したあの超人的な技巧、あれを会得するまでに要した年月と苦心を思えば、玄冬はまだまだ生きることに飽いてはいないことは想像に難くない。

 玄冬とのにらみ合いは続いた。この瞬間に、宗次郎が助太刀でもすれば事は玄冬にずっと有利にはたらいていたのだろうが、おれにとっては幸いに、あの腰抜けにそんな気概があるはずもなく、部屋の隅で最初からいままでずっと縮こまっている。

 おれが宗次郎にちらと視線を向けること何度目かというとき、玄冬の腕と腿に入っていた力の加減が変わった気配がした。どうやら、おれにこれ以上の策がないと結論付けたようで、安心して仕掛けるつもりになったようである。硬直した時間のお陰で多少の尿意は回復したが、おれの虎の子のおしっこビームが通じないからには、漫然となりゆきに任せているだけではなすすべなく斬られるよりほかない。

「あの宗次郎に人を見る目があったとは意外だが、なかなかの手合いと見える」

 おれは自分の寿命を少しでも延ばすべく、時間稼ぎに玄冬に話しかけてみた。果たしてやつはなんの返答もしなかったが、わずかではあるがこちらを警戒する気配が戻ったようだった。それを確認して、おれは懐から竹筒を取り出して最後の水を一気に飲み干した。呼吸を整え、膀胱へのおしっこの充填を確認した。

「宗次郎ごときのために死なせるには惜しいものだが、武士の本懐はかくも無常よ……」

 おれは意識をちんちんに集中させ、鉤モードによってちんちん本体を射出した。しかしこれはおしっこよりも格段に速度は劣るため、避けるだけであればたやすい。おれの切り札に対して、玄冬の表情には恐怖や驚愕ではなく安堵の色が見えた。本体を近づけて距離を縮めておしっこ発射から命中までの時間をいくらか短縮したとしても、やつには避ける自信があるに違いない。

 しかしおれのねらいは本体射出からのおしっこ発射の二段構えではなく、もっとほかにあった。おれは八百万の神々の中にきっといるに違いないちんちんの神様に祈りを捧げながら精神を集中させて、目標めがけてまっすぐ撃ち出したちんちんの角度を急激に上方へと変えた。この動きはさすがに予想の本命ではなかったのか、余裕ぶっていた玄冬は「むっ」と頬の緩みを正して身構えた。

 そこからの一瞬におれはかけ値なしに全身全霊を振り絞った。これで精魂尽き果て斃死したとして、どのみち、負ければ死ぬる運命なのだ。血液が沸騰しそうなほどの集中力でもってちんちんの先端を玄冬の頭上に正確無比に操縦して、それに合わせて、萎える我が脚をしかりつけて玄冬へと飛び掛かった。


 オールレンジ攻撃――!


 少し、話を離れる。オールレンジ攻撃とは今日では複数方向からの同時攻撃のたぐいを指すものであるが、記録に残っている最古のオールレンジ攻撃は現在本文にて繰り広げられている三島宗允と玄冬との戦いにおいて、いままさに宗允が放った攻撃であるとされている。日露戦争で日本軍を勝利に導いた立役者の一人である秋山好古が古今東西さまざまな合戦や対決に通暁していたことは周知の事実であるが、彼が騎兵隊の機動力を生かしてロシア軍を多面から同時攻撃する戦術を編み出したことには、宗允の戦い方からおおいに学ぶところがあったことはいうまでもない。


 玄冬の表情には明らかな緊張の情動が浮かんでいた。あの余裕綽々に澄ました面をおびやかしたというだけでもおれは少しばかり満足できた。つながりかけていた脚の筋と、PC筋とかそのへんの筋が激痛で悲鳴を上げていた。こんな技、生涯で一度きりしかぶっ放せる機会も気力もないと思えた。

 短い時間でおれは必死に考えた。この攻撃はほとんど同時に行わなければならないが、されど全く同時ではまずい。おれの剣撃とちんちんの尿劇が完全に同じタイミングで行われてしまうと、相手はいちかばちかでどちらか一方を回避するだけで、結果的にどちらも回避できてしまうおそれがある。どちらかの攻撃をかわした直後、体勢を崩したその瞬間をもう片方の攻撃でねらうのが理想なのだ。

 おれの死に物狂いのリハビリの日々は、いまこの瞬間のためにあったのだ。あとは、おれと玄冬、どちらが人生に対してより真摯に向き合ってきたかの勝負というわけか。

 玄冬は、地上からくるおれと、頭上からくるおしっことの、どちらに対処するべきか、一瞬、迷ったようであった。

 が、そこからの玄冬の反応はおれの想像をはるか凌駕してくるのであった。

 玄冬は瞬時に体をそらしながら飛び跳ねた。その動きによってかろうじておしっこを避けたが、注意は頭上に向けられている。加えて、さしものやつでも空中では次の動きはままなるまい。おれは無防備をさらすやつの胴をしたたかに斬りつけてやった。

 ところがおれの刃は堅いもので弾かれた。わき見をしていたにもかかわらず、おれの動きを全く見切っていたかのように、玄冬は持っていた刀をおれの攻撃と自らの胴体との間に持ってきていた。強引な姿勢で腰も入っていない受け刀のため、いくらかの衝撃は体に伝わって打撲ぐらいはしただろうが、無論のこと、致命傷にはほど遠い。

 さらに悪いことに、そもそもなにゆえ玄冬があえて飛び跳ねたのかをおれは直ちに思い知らされることになるのだが、やつは頭上にあったおれのちんちんをむんずとつかむと、力任せに引っ張った。

 赤の他人にちんちんをそんなふうに乱暴に扱われたことのないおれがおおいに仰天するいとまもあたえず、玄冬はおれの攻撃を受けた刀を持ち直し、着地と同時におれのちんちんを根元から切り落とした。

 憎き宗次郎の目の前とはいえ、恥も外聞もなく、おれはあられもない悲鳴を上げた。世に宦官のたぐいはあまたいるだろうが、かような屈辱極まる苦痛を生涯で二度も味わったのはおれくらいなものだろう。前世でどれだけの悪徳をやらかした末に、どんな星の下に生まれたというのだろうか。

 おれは精魂尽き果ててぶっ倒れた。敵が何を仕掛けてくるのかわからぬが、唯一の心のよりどころを失ったいま、どうされようが興味のわくところではなかった。苦痛と恥辱にまみれて、この責め苦から逃れられるのであればそれはそれで一つの救いに思えた。


「宗允! 意地汚く拾った命、後生大事にすればいいものをむざむざとマヌケなやつ!」

 宗次郎が露骨に活気づいてはやし立ててきた。

「マヌケにふさわしいしぐさで命乞いでもしてみろ。血縁の情け、城下で乞食でもさせて生かしといてやる」

 ぺらぺらと気持ちよくしゃべる宗次郎のアホに対し、おれは改めてこのアホはむかしから何かにつけかさに着ては調子づく鼻持ちならない嫌なやつであり、やはりおれはこいつとは反りも馬も合わぬことを再認識して、何かしら安心すらした。

 窮鼠の一噛みでもくらわし、アホにトラウマでも植えつけてから逝きたいところだが、刀を弾き飛ばされ、ちんちんを斬り落とされたいまはそれもままならぬ。かろうじて動く口と頭で、エスプリの利いた辛辣な一言二言でも発して小粋にやり返したいところだが、思いついたのは小学生がはしゃぎそうなベーシックな下ネタのたぐいばかりであり、この期に及んで自らを落としてアホをよろこばすいわれもあるまいと判断し、結局は無言かつ無反応でいた。

「土産話に教えてやろうか、そいつはサトリよ。他人の心を読める。貴様の攻撃なぞ、すべてお見通しだ。もっとも、それを活かせるだけの体術も必要なわけだが、それも抜かりはない。なぁ、玄冬」

 宗次郎の語り口は、買ってもらったおもちゃを自慢するガキのように嬉々としていた。玄冬がサトリであると聞かされたが、おれはさほどおどろかなかった。玄冬の反応は人智を超えてもはや神域ともいえる速さであり、戦いながら「あるいは……」と憶測するところもあった。宗次郎が得意げに披露した秘密に対して、どちらかといえば納得する気持ちの方が強かった。むしろ懸念されることは、玄冬がいまこのときも現在進行形でおれの思考を読み取っているかもしれないことである。そうだとすれば、先ほどの程度の低い下ネタはちとまずかったなと愧じ、混迷するウクライナ情勢とか古代インド哲学とかなんかそんな感じのことを悶々と脳内に散らばらせておいた。

「宗次郎様、そろそろよろしいか」

「うむ。やれ」

 宗次郎は勝者のおごりで、いっときおれをなぶってよろこんでいたが、ようやく満足したか、飽きたかしたようであった。そうして、サトリらしく宗次郎の心中を察した玄冬がついにおれを殺す段取りに入ろうとしていた。

 おれはここで死ぬのだろうか。だれもがそうであるように信じられなかった。何よりおれなのである。おれはこの話の主役ではなかっただろうか。おれはどうにか力を振り絞り、「まあ、待て」と声を上げた。それまで全く無反応であったおれの態度にいささかの不満を感じていた宗次郎は「ほう」と興味を見せた。

「こいつは見ものだ、辞世の句でもやるつもりか。せいぜい、そのあいだだけはまだ死なずに済むからな。ハハハ、未練がましいったらしようがない」

 おれは宗次郎の嘲弄など無視して、急ぎ、攻略Wikiを参照した。これはバッドエンドルートに入っているのだろうか、それともまだ何かイベントがあるのだろうか。攻略Wikiによればこのあたりの展開としては、住職ルート、赦しルート、一致団結ルートがあるとのことである。住職ルートは修行パートの最終日よりも前に鍛錬ポイントを28以上にすることで住職の昔話イベントを最終日よりも前に発生させ、さらに、修行パートが終わる前に住職の過去のトラブルを解決することで住職覚醒イベントが発生し、おれの義ちんちんが大幅に強化されて、玄冬を撃破することができるそうである。最終日よりもけっこう前に28なんてよほどイベントの引きがよくない限り一周目じゃまず無理そうである。赦しルートは城内に侵入後、宗次郎配下の敵を一人も殺すことなく玄冬とのバトルに突入し、その後、こちらからは一切攻撃せずに一分間生き延びるとイベントが発生して、最終的におれは宗次郎のやつを赦して落着するそうである。おれが? あのアホを赦す? あんなひどいめにあわされたのに? ホントかね。一致団結ルートは修行パートの森田遭遇イベントまでに徳ポイントを5までためておくとイベント分岐が起こって、森田を引き連れて城下に戻り、そこで家臣一同を引き連れて宗次郎一派と全面対決するルートとのことである。こんなルートがあるのかぁ、へー。

「宗次郎、お前がおれを嫌っていた以上に、おれはお前のことが嫌いだったろうよ。それだけ伝えておきたかった。しかしもはや何もかも手遅れ、か」

 攻略Wikiで確認した限り、もっと前の時点でルート分岐するようなので、ここまで来たらもうルートが固定してしまっている。これは何ルートなんだろうかとかもう少し調べてみると、一周目は強制的にノーマルルートまたはゲームオーバーと書いてあった。なんだ、じゃあ別に後悔する必要もなかったわけか。そんならすっきりした。

「はっ、そうかい。最期の最後、貴様と気が合うとはな。玄冬、もういい」

「承知」

 玄冬が明確な殺意とともにこちらに近づいてきた……。


 チョピン――。


 不意に、何かが漏れ出た気配があった。そう、全くの不意のことで、完全におれの随意を伴わない現象が発生したらしかった。

「なっ……」

 玄冬が驚愕の顔をさらし、胸を押さえて膝から崩れ落ちた。心臓を貫いた一撃によって血がとめどもなくあふれている。玄冬は血の流出を止めんと必死に傷口を手で塞ごうともがいたが、やんぬるかな、まもなく動かなくなった。

 玄冬を死に至らしめたのは、切断されて使いものにならなくなったはずの義ちんちんだった。

「げ、玄冬! そんなバカな……。き、き、貴様、何をしたぁ!」

 宗次郎は慌てふためき玄冬のもとに駆け寄ったが、すでにこと切れていた。おれは錫杖を支えに、ゆらりと立ち上がった。

「残尿よ……」


 話はほんの数日前にさかのぼる。このころにはおれは義ちんちんをかなりのところまで思うように精緻に扱えるようになっていた。必殺のオールレンジ攻撃も六、七分といったところまでは仮想の上とはいえ仕上がってきた(当時は知る由もなかったが、結局玄冬には通用しなかったわけだが……)。

 おれは朝の鍛錬を終え、寺の廻廊に寝そべり、一息ついていた。この季節には珍しく空にはほとんど雲が出ていない穏やかな日で、おれは陽光で温まった床板からのぬくもりを感じつつ、死神酋長はなぜ大酋長を殺さなかったのか、など考えたりしていた。

 しばらくぼんやりくつろいでいると、住職がやはりまだ酔いの覚めきらぬ風情でよたよたと出てきた。見るでもなく見ていると、案の定、住職は定位置の藪に向かって放尿を始めた。今度はいつぞやのときのように射線があやふやになることはなかったらしく、ひとまず無事に終わったようだった。しかし住職はすぐにはその場を離れず、藪に向かったままなんだかもじもじしていた。さらに、少し離れたおれからもわかるぐらいちんちんをパワフルにブルンブルン振っているらしき音とかした。

(あれは出し切ろうとしているのだ……)

 人間、歳を取るとキレが悪くなってしまうのである。はためには「何もそこまで」と思えるぐらい、住職は振ったりもんだり搾ったりしていた。ようよう、落ち着いたのか、ちんちんをしまって再び本殿屋内に戻ろうとした。

 数歩ほど歩いたところで、じょろりん、と意地悪く尿が漏れた。そのときの住職の表情はなんとも切なく情けなく、もしおれがゴータマ・シッダルタであれば人の苦の一つについて悟るところがあったのだろうが、あいにくとおれはそんな立派な人間ではなかったため、もっと即物的かつ実戦的な技術をひらめいた。

「そいつは、理論的には可能かもしらんが……いや、しかし……」

 さっそく、おれは住職に自らの考えを相談してみた。住職はあまり乗り気ではなかった。なんとなれば、くだんの技を使うときが来るというのは、とりもなおさず、おれの絶体絶命の事態であり、そんな状況で不確定要素を多分に含む技に、残された貴重な命をオール・インするのはいかがなものかと躊躇していた。

「なに、しろうとの思いつきだ。さして深く考えなくとも構わん。おれもこんなものをあてにするつもりはないが、『こんなこともあろうかと』の一種だと解釈してくれ」

「まあどうしてもということなら、一応は実装しておくがな……」

 口調とは裏腹に、存外、住職はまんざらでもない感じで残尿機能を実装してくれた。住職よ、そなたはまぎれもなく最高のエンジニアであった。


「――宗次郎!」

 玄冬の死を確認すると、げんきんなものでおれの体の奥底からふつふつと気力がわいてきた。さっそく、そいつを使って宗次郎のボケを一喝した。それだけであの弱虫泣き虫は腰を抜かし、這う這うの体でおれのちんちんを隠しているらしき衣装部屋によたよたと逃げ込んだ。

「あわ、わわわ……」

「逃げるか、痴れ者め!」

 気力は戻ったが、おれの身体は機能的にはかなりダメになっていた。腕はまだ多少はましだが、脚など片方はまるっきり動かせなかった。おしっこは垂れ流しだ。しかしそれでもおれはどうにかこうにか杖で支え支え、脚といわずほとんど全身を引きずりながらボケのあとを懸命に追った。少なくともいまこの時間に限っていえば、おれは三国でもっともがんばってる人間であり、さらにいえば、古今東西全人類それぞれの一生涯にまで規模を広げても、ベスト1000に入ると断言できるぐらい必死になった。

「おら、出てこい! お前、絶対許さんからな!」

「ひえー」

 おれが部屋に入ると、宗次郎のバカタレは何か小包を抱えて障子窓からあたふたと飛び降りた。ここは二階だし、やつのどんくささはやつ自身が一番よく知っているはずだが、といぶかしみつつも窓から外を覗いてみると、果たしてあのバカタレは地べたに転がって「うええ、おえっ、うぇっ、へぐっ」なんてべそをかいていた。ハハハ、実にいいザマであるバーカバーカ。

 おれはあんなアホで向こう見ずな蛮行には挑まず、文明人らしく冷静に階段を使って下に降りた。外に出ると夜が明けようとしていた。臥薪嘗胆の日々にもどうやら終わりが見えてきたようである。もうすぐ暖かい布団でゆっくりと眠れるのだと自分を励ました。

 宗次郎の落下地点に向かうと、あのスカタンはやつ自身の現状を当事者として改善しようという努力も見せず、依然としてただめそめそとしていた。我が仇敵ながらおれはつくづくうんざりした。あんなスカタンと何が悲しゅうて切った張ったをせにゃならんのだと情けなくなった。

 おれは「バカ、ケチ、ナマケ! いい歳こいて酢のものとか嫌いなやつ!」などと罵詈雑言を浴びせながら宗次郎との距離をひっこらひっこら縮めた。口先だけは威勢がいいが、正直なところ動くのがかなりしんどかったので、たとえばここで宗次郎がいきなり土下座でもしてくれれば半殺しか四分の三ぐらいで勘弁してやらんでもない、という気持ちが全くなかったかといわれれば否定はできなかった。

「ああ、ちくしょう、こっち来るな。こいつがどうなってもいいのか」

 それにもかかわらず、スカタン野郎は立ってるのか這ってるのか人によって判断がわかれるような珍妙な体勢でおれから逃げようとし始めた。体のかばい具合から見るに、飛び降りたときに腰と足を盛大にやらかしたようである。

「それ粗末に扱ったらどうなるかわかってんだろうな生まれたこと後悔させてやるかんな覚悟しとけよ!」

 この期に及んで逃げ回るパープリンを、おれは死に物狂いで追った。玄冬を倒してここまで、気力と勢いでごまかしながら突っ走ってきたが、どうやらその魔法も切れてきたらしく、濡れた布を頭からかぶせられたようなだる苦しさを感じ始めてきた。

 おれもパープリンもそれぞれ現状可能な最大限のパフォーマンスを発揮して追い、逃げた。しかしながら、事情を全く知らないぶしつけな人間がはたから見れば、「何をじゃれあっていやがる」というぐらいのスピードで、何よりその人体の本来の構造にもとづく最適な動きからかけ離れた所作は、ともすれば滑稽にも見えそうであった。

「おい、宗次郎。いったん止まれ。話を聞け。お前だってぼろぼろだろう。いや、殺さん。あ、いや、あとで殺すかもしらんがいますぐには……」

 おれは酸欠と貧血ではなはだ気分が悪く、なんとかこれ以上は走らないですむように、おれのちょっと先にいるパープリンの説得を試みた。やつも死ぬほど疲労困憊しているのは明らかなのだが、まだ死んでいない限りは死なないように死ぬ気でがんばりぬくつもりのようであった。なんでそのがんばりをもっと以前からほかの場面で発揮しなかったのだ、とおれはやつをしかりつけたい感情がわきかけたが、もうそんな義理もあるまいと自らの心をなだめた。いや、いまの本件と無関係なことに頭を使っただけでも、気が遠くなりかけた。

「ちっ!」

 おれは聞かせるように大きく舌打ちをした。パープリンはこちらを振り向きもせず一瞬体をこわばらせて返事をした。

 宗次郎の野郎は当初はハイハイで逃げていたが、途中で灯篭にしがみついてなんとか体を起こし、しかし、体のどこそこをやっているらしく、小さな歩幅でしかも片足をかばっていちいち傾きながらヨチヨチと逃げていた。それがやつなりにこの短時間で編み出した局所最適な動きらしかったが、やはり体に響くらしく、数歩ごとに「つっ」とかなんとか短いうめき声をあげていた。対するおれは、錫杖とましな方の脚でどうにか立位を維持し、進むときは錫杖にほとんどの体重をかけつつ、片足をヒョコンと動かし、続いてダメになっている脚をズリズリと引きずり、そしてときどき「ぐっ」などと悲鳴を上げるやり方だった。こんな苦労は半死半生のおれたちではなく、もっと元気な若い連中にやってもらいたかった。

 あの野郎は城下に逃げようとしていた。外はもうだいぶ明るくなってきているのだが、どうしたわけかおれ陣営にも宗次郎陣営にもだれも救援にやってこないのが不思議だった。折からの財政難で人減らしをしているとは聞いていたが、それにしたってここまで閑散としているのは妙であった。だが、その理由について考察する余力もなく、とにかく宗次郎のオタンコナスの後ろ姿だけに注意を向けようとした。


 するとそのとき、ちょうど城門が開けられる時限だったらしく、門のそばから近くの櫓に身を隠すような動きをした兵を発見した。雪山で遭難した人間がほかの登山者に邂逅できたときのような、にわかには受け入れがたい不信なよろこびを感じた。城の前は開けた大通りになっているため、宗次郎をすぐに見失うことはなさそうである。おれはいそいそと櫓に向かって呼びかけた。

「余は三島家当主、三島宗允である。門番同心の身分をはばかり、余の前から姿を慎んだというのであれば大儀である。遠慮なく参上するがよい」

 さっき目撃したやつの動きはそんな恭しいものではなく、明らかにめんどうごとを隠れてやりすごそうとする不誠実さを感じてしかたがなかったが、おれはあくまで臣下の忠心を信じてやまない君主的な態度を見せてやった。

 すぐには反応はなく、おれが「おいこらふざけんなよてめえら」と癇癪を起こしかけたところで(普段のおれはもっと気の長い方なのだが、いかんせん、苦痛は人の余裕を奪ってしまう)、一人の門番同心がいかにも不承不承といった態度で姿を現した。

「はあ、なんすか」

 その門番同心のやつは、寒いのはわかるがやつの雇用主たるおれを前に懐手のまま、かすかに貧乏ゆすりなんぞしながら、それにこの口の利き方はどうだ、このうん十年、おれにそんな口調で話しかけるやつなんて、まあ、宗次郎のやつを除けばいなかったはずで、怒りや呆れもわかずにただただ困惑するよりしようがなかった。元気になってからまず真っ先にやるべき仕事として、こいつの上司に「あいつはなんなの」と尋ねることをおれは心に決めたのだった。

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