第67話 聖女追放

 一時でも早く横になりたい。

 そう思うアスロたちをイリヤが連れてきたのは飯屋だった。

 イリヤは四人掛けの机にニナとアスロを並べて座らせると、自分は向かいに腰掛けて適当に料理を頼む。


「ここはコーヒーを飲ませるんだ。舶来物だぜ」


 嬉しそうに言うのだけど、アスロは口の中を切っており、物を食べたられそうにはなかった。

 

「私は何か、甘い飲み物を」


 唇をひび割れさせたニナが苦しそうにつぶやく。

 怪我の過剰な治療は深い疲労をはじめとした激しい不調をもたらすのだという。

 

「じゃあ、蜂蜜のお湯割りだな」


 店員に注文し、姿が見えなくなるとイリヤが顎を掻きながら尋ねる。


「それで、いくら持ってる?」


 そういえば宿代がない。肩を借りて歩く道すがら、アスロが言ったために急遽、こんな店に入ることになったのだ。

 

「ぜんぜん。無一文」


 アスロは返却された服を着て、靴を履いているものの、ジプシーの一団を抜ける時に持ち出した金はルドミラとの宿代で底をついてしまっていた。

 ニナに至っては強引に拉致されたため、一銭も持っていない。

 

「ありゃ、三人とも無一文か。まあ、ここの払いくらいは俺が頼み込めばツケといてくれるだろうが」


 イリヤは楽しそうに笑うが、同じにされては困る。アスロは文句の一つも言いたかったのだが、苦痛で言葉が潰れて出てこなかった。

 しかし状況は深刻で、この状態だとしばらく仕事も拳闘試合も出来そうにはない。

 数日じっとして回復を待たなければならないのに、その期間を過ごす生活費がないというのは非常に頭の痛い問題だった。

 と、店の扉が開いて女性客が入ってきた。

 店員があからさまに嫌な表情を浮かべて迎えたのは、彼女がジプシーだったからだ。


「案内はいらん。ツレが先に入ってんねん」


 店員を押し退ける様に入ってきた女性はアスロとニナを見ながら言う。

 それはジプシーの女傑、リリーであった。

 リリーはツカツカと歩み寄るとイリヤの横に腰を下ろす。


「勝ったんてね」


 開口一番、リリーはボロボロのアスロを見据えて目を細めた。

 偶然、遭遇したわけではない。自分に付けられていた監視の内、何人かは周到なユゴールの手配だったのだろう。

 アスロはそう思いながら、頷いた。

 

「あ、ユーリの知り合い? 丁度よかったじゃない。お金を貸して貰えば……」


 イリヤの朗らかな提案は冷たいリリーの視線に射すくめられ、氷付けにされた。

 リリーは運ばれてきたコーヒーを口に運ぶと、ニナに向き直った。


「アンタはどうするの?」


 ニナも暖かい飲み物に少し口を付け、うなずいた。

 

「アスロについて行きます」


「さよか」


 リリーは深いため息を吐き、残りのコーヒーを飲み干して立ち上がった。


「マーシャ、手を出せ」


 偽名を呼ばれ、ニナはおずおずと手を差し出した。

 その手に革袋が置かれた。中身の詰まった財布だ。

 

「今、この時をもって我が氏族はマーシャを追放し、無縁とする。手に持っている物以外、持ち出すことは許さん」


 一方的に宣言し、リリーは髪をかきあげる。

 顔には決して愉快ではない表情が張り付いていた。


「ユーリもマーシャも、今後はウチの氏族と関わるな。場合によっては敵とみなすから、どこかですれ違っても態度は考える様に……ちゅうこっちゃ。わかったな」


「リリー姉さん、ありがとうございます」


 ニナは貰った財布をかき抱いて頭を下げた。

 リリーはアスロたちに路銀を渡すため、建前を用意してわざわざやってきたのだ。

 

「うっさい、もう身内やないねんから姉さんて呼ぶな」


 リリーはニナの頭をくしゃくしゃに撫でながら言う。

 

「それからユーリ。いや、アスロやったな。第六小隊の隊長殿から伝言を預かってる。明後日の払暁時、船着き場に来いて。伝えたぞ。ほな、な」


 ニナの頭を離した手でアスロの額を軽く叩き、リリーは店から出て行った。

 それを見送ったイリヤはニナの手に視線を移し、相好を崩す。


「なんだかよくわかんないけど、酒代が貰えたんならよかったな。今夜はパアッと、飲み明かそうぜ」


 怪我人と半病人を掴まえて、どうすればそういう発想ができるのか。

 アスロは肩を落とし、上がりつつある体温に顔をしかめた。


 ※


 丸一日、アスロとニナは貪るように眠り、ユゴールが指定する時刻はあっという間にやってきた。

 日が昇る前の真っ暗な中をアスロとニナは手をつないで歩く。

 幸い、特異な体質からアスロの体に刻まれた細々とした傷は治癒しており、ガンザノフに指を入れられた目は随分と滲むが、どうにか機能を喪失しないで済んだようだった。

 なにより深刻なのは骨折で、動く度に激痛が走るのを無理して押さえ込んでる。

  

「だから、治してあげるっていったのに」


 いくらか体力を取り戻したニナがぼやくのだが、それでも全快とはほど遠いニナに身を削らせるのは避けたかった。

 どうにか川沿いの船着き場に着くと、数人の人足たちがやがて始まる激しい作業に備えてたき火に当たり、食事をとっている。

 その脇を通ってユゴールを探していると、いた。

 独特の体型をした影が木箱に座り、惚けたまま星空など見つめている。

 

「あ、ほらアスロきましたで」


 脇に立つ小さい人影が気づいてユゴールに知らせる。

 その声の主はよく知っていた。

 

「ルドミラ」


 アスロが口にするより早く、ニナがその名を呼んでいた。

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