第66話 狼から怪物へ
全身の痛みと、興奮がガンザノフの胸に刺さった爪を深く食い込ませる。
仰向けに倒れたガンザノフはやりきった清々しさをみなぎらせながら天井を見つめていた。
このまま胸を切り裂き、心臓を取り上げられても文句は言わないだろう。
しかし、殺す訳にはいかない。
観客に紛れた候補生たちのある者は懐に手を突っ込んでおり、ある者はすでに拳銃を取り出しアスロに向けていた。一人、二人ならともかく数が多すぎる。
勝利を求めたのはガンザノフであり、アスロが求めたものはニナの身柄と安全な逃避である。
それを約束したのはガンザノフで、候補生たちではない。
なんとしてもこの油断ならない男を生かし、約束の履行を迫らねばならなかった。
アスロは脱力したガンザノフを改めて見つめた。
割けた額。深く抉られた腕。指を二本も折られた手。千切られた耳。
全てハメッドによって負わされた傷である。
その時点で、常人なら十分な安静を必要とする。にもかかわらず、嬉々としてアスロに向かい合ったのだ。
アスロも殴りつけ、蹴りつけた。
痣があり、潰れた鼻と細かく割けた唇がある。
にもかかわらず、心は折れずに、ついにアスロは全身の獣化という秘中の秘まで引きずり出されたのだ。
互いに素手だとしても虎と人間では事情が違う。
筋肉が違う。骨格が違う。手足に、口に、鋭い刃物を備えた生物は単なる接触で他者の命を奪う。
ガンザノフの体には牙と爪により、深い傷がいくつも刻まれ、左手に至っては牙による裂傷が骨にまで達していた。
狡さも汚さも含めて、尊敬したくなる強さだ。
アスロの前足が一閃され、ガンザノフの右腕に深い傷を刻む。
激痛が走った筈だが、ガンザノフは表情をわずかに歪めただけだった。
「自分が負けたと思うのなら、部下に命令してニナを連れて来るように言え」
アスロ自身、勝ったとは思っていない。
単純に人間同士の殴り合いなら首を潰されて終わりだった。
「もちろん、手配しよう。そこをどいてくれたらね」
アスロはガンザノフの胸から足を下ろした。
それでも、一瞬で首に噛みつけるよう、背後に陣取る。
「全員、銃を下ろせ。俺の負けだ。『聖女』を連れてこい」
さすがに命令厳守の教導隊である。
候補生たちは即座に銃を下ろすと、数人がどこかへ出て行った。
アスロは静かに集中し、体を人間のものに戻す。
観客からどよめきが漏れた。
変化によりズボンが破れており、局部が露出しているが、目と背中の痛みが尋常じゃなく、恥ずかしさはなかった。
さわった感じだと眼球は、おそらく潰されていない。視力は落ちるかも知れないが、摘出などはしなくてもいいだろう。
それよりも背中だ。
虎になって投げられた時か。肋骨が折れている。
息をするだけで火がついたように痛みが走る。
「アスロ。俺の負けだ」
あぐらを掻いて座るガンザノフが静かにつぶやいた。
しかし、それに次ぐ言葉は第三者の声でかき消されてた。
「ユーリ、大丈夫か?」
そちらに視線をやると、椅子を持ったイリヤが駆けて来ていた。
椅子を傍らに置き、外套をアスロに掛ける。
苦痛に歪むアスロの手をひいて、椅子に座らせるとイリヤはアスロとガンザノフの怪我具合に顔をしかめた。
「びっくりしたぜ。なに、あれ大きな猫に化けたけど、オマエって魔女の使い魔かなにか?」
革命を機に土着も含めて信仰は禁止されている。
しかし、この非管理経済がまかり通る都市でなにを今更。
アスロは苦笑を浮かべて、激痛に顔をしかめた。
「いや、しかし椅子をもう一個もって来たほうがいいな。オッサン、ちょっと待ってなよ」
革命軍最強の男を掴まえてオッサンとはずいぶんな命知らずもあったものだとアスロは思ったが、それで笑うと激痛が襲うのは分かり切っている。静かに、深く息を吐いて心を落ち着けた。
場違いなイリヤの言動に、凍り付いていた観客も徐々に動き出す。
「ほら、椅子だ」
グロックが手ぬぐいと椅子を持ってやってきた。
手を貸してガンザノフを立たせると、ゆっくり椅子に座らせる。
「いま、服と包帯も持ってこさせる。ちょっと待ってな」
「ああ、ありがとう。ところで君がここの管理者かい?」
ガンザノフは失血で青くなった顔を向けてグロックに訪ねた。
「一味の構成員ではあるが」
「そうかい。場を冷まして悪かったね。客もずいぶんと帰ってしまった」
と、候補生たちが手に包帯や蒸留酒をもって現れ、ガンザノフへの応急処置を始めた。アスロもズボンを渡され、苦痛にうめきながら足を通す。
やがて、二人は会場の隅に移され、続く試合が始められた。
ガンザノフの謝罪どおり、場は冷え切っており、また戦士のレベルもアスロとガンザノフに比べて圧倒的に低い。悲しいほどに盛り上がっていなかった。
間もなく、ニナが二人の候補生に付き添われてやって来た。
見たところ、怪我もないし連れ去られた時と違い、自らの足で立っている。
「連れて行け。俺たちは第六小隊への用が済んだとして一度、本部へ戻る。十日か、一ヶ月は追跡を止める」
壁に背をもたれさせ、ガンザノフは喘ぐように息を吐いた。
脳内に充満していた興奮物質が去りつつあるのだろう。
「もう会わないことを望みます」
アスロは痛みに耐え、立ち上がりながら言った。
「そう言うな、
居並ぶ数人の候補者たちの視線が一斉にアスロへ集まった。
どれもこれも、形容しがたい雰囲気をまとっており、与しやすいと思えるものは一つもなかった。
可能なら、彼らの誰とも、二度と会いたくない。
視線を切ると、今度はニナと視線が合った。
両足で立ってはいるが苦しそうだ。
二人してボロボロだな。それでもどうにか細い糸を掴んだのか。
そう思うとアスロは可笑しくなってしまった。
「おい、大丈夫かよ。送っていくって」
イリヤがすっと身を入れて、ふらつくアスロを支えた。
同時に足取りがおぼつかないニナも支え、三人そろって倉庫を出ていくのだった。
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