第65話 狼の男
押し込まれる感触と、猛烈に熱い痛みに慌てて首を回し、アスロは指から逃れた。
指を食いちぎってやる。
掴もうとした左手はヒラリと動いて逃れ、入れ替わりに右拳が降って来た。
左目への鉄槌打ちに視界が殺される。
右目はどうか。そう深くまで指を入れられたわけではない。
果たして潰されて失明したのか、それとも眼球を押されただけか。
いずれにせよ、怪我の深さを計っている間はなく、損傷度合いが軽くても右目はしばらく用をなさない。
視界を奪われ、腕で顔を庇った。
迂闊だ。全くもって迂闊だ。事前の口約束があったとはいえ、審判がいるわけでもない。正式な試合でもない闇試合である。相手の非をいったいどこに告発するというのか。
そもそもこの試合に反則で負けて困るのは一方的にアスロだけなのだ。ガンザノフが反則を行い負けた時、アスロは地面に倒れ伏している。
それに対して、アスロが反則を犯してガンザノフを倒したとしても、その目がつぶれていれば負けの事実が残り、周囲に潜んだ候補生たちによる攻撃が始まる。
アスロの首にガンザノフの右手が押し当てられた。指に力が込められ、体重が掛けられる。
人差し指と中指、それに親指で血管を潰し、指の股で気息が塞がれている。もう少し力を籠めれば首の骨が折れるだろう。
一瞬で意識が遠ざかる。
駄目だ。何もかもガンザノフに捌かれ、いいようにされている。
このまま死ぬのか。
記憶が幾つも浮かび上がり、押し流されて消えていく。
幼き日の居留地。まだ優しかったボージャ。狼の教導隊とは別の特殊兵訓練所での日々。青年になり、苛立たし気なボージャと、彼の描いた穏やかな絵。彼が抱いた女たち。軍務の日々。足蹴にし、射殺した反革命勢力の連中。殺す瞬間のボージャの顔。ニナとの旅路。約束。ウサギの味。ルドミラの肢体。
死にたくない。
「おっと、こいつが噂の変化か!」
意識と視界が戻って来たとき、ガンザノフはアスロの両手を掴んでいた。その手先は無意識のうち、虎のものに変化しており、黒く鋭い爪がガンザノフに向けてむき出されていた。
右目は激痛で開くこともできないが、左目には楽しそうに笑うガンザノフの顔が映っている。
アスロは吐き気を堪えて大きく息を吸った。
不足していた酸素が体内を巡っていくのを感じる。
「会いたかったよ、
朗らかな言葉に続いて、頭突きが撃ち込まれた。
歯を食いしばって耐えたアスロは、衝撃が思ったほどではないことに驚いた。
分厚い剛毛が打撃の勢いを遮っており、肩幅まで太くなった首が衝撃を受けきる。
頭までが虎になっているのか。
観客の戸惑ったようなざわめきが聞こえてくる。
いつの間にか、アスロは全身が虎に変じていた。
ガンザノフは額に汗の玉を浮かべながら一層に喜んでいた。
それでも戦いを辞めるという選択肢はわかないのだろう。群れを率いる『狼』は『知恵のある虎』と対峙したことがないゆえに。
わかっていない。
虎の腹にまたがって一体、どういう利点があるというのか。
アスロは首を腹の方に向かって伸ばした。
それだけでガンザノフの腹に口が届いてしまうのだ。
アスロの両手を抑えていたため、ガンザノフは反応が遅れた。
後ろに飛び退こうとしたガンザノフの腹の肉をアスロはあっさりと食いちぎっていた。
ほんの僅か、一つまみの肉である。
それよりも重大な損傷をガンザノフに与えたのはアスロの足だった。いや、後ろ足というべきか。
関節の方向と可動域が大幅に変わっている。
ただ、足をそちらに傾けるだけで爪はガンザノフの背に刺さり、足を動かすだけで盛り上がった背筋をやすやすと切り裂く。
呻きながらガンザノフは立ち上がり、距離を取った。
離れ際、解放されたアスロの手はガンザノフの胸から腹にかけて三条の深い線を描いていた。
「少佐!」
候補生の一人がアスロに向かって銃を構える。小口径の拳銃である。
アスロはその愚か者を殺すため、重心を下げた。
しかし、ガンザノフが手を挙げてそれを制止する。
「余計なことをするな。殺すぞ」
余裕と、優し気な雰囲気を捨てた戦鬼がそこに立っていた。
しかし、いかに腕が立とうとも素手を頼んで虎を迎え撃とうなどと、自殺志願者に他なるまい。
アスロは首を地面すれすれまで下げて、腹の底からうなり声を上げた。
観客の一部は何が起こったかを理解することも放り捨て、走って逃げ出した。彼らがもっとも賢い。
残りは目を丸めたまま身を固めている。
熱気と喧噪、その雰囲気がガラリと変わった中でガンザノフは立っている。
牛の首でもかみ砕く顎が広げられ、鋭い剣牙を誇示した。
しかし、あくまで狼は怯まない。両手を顔の前に上げ、獲物を待ち受けている。
熱を帯びた冷静な視線が虎を見据えていた。
跳躍。
アスロはガンザノフの首をめがけて跳んだ。
瞬間、ガンザノフの重心が後ろに下がった。
逃がすか!
逸ったアスロの口が届く寸前、ガンザノフは左肘を虎の口に差し込んだ。
上顎に肘が押し当てられ、同時に伸びた手が虎の首根っこを掴む。
勢いそのままに、アスロの視界が回転した。
重い衝撃が想定していなかった方向から轟音とともにアスロを叩く。
ガンザノフがアスロの勢いを利用して投げつけたのだ。
即座に飛びかかったガンザノフがアスロの背面に回り右手で首を絞めた。
恐ろしい男だ。
アスロは心底からそう思う。
今の流れでアスロの牙が、ガンザノフの左腕を半ば切断していなければアスロは負けていただろう。
片手で締められるほど、虎の首は柔らかくない。
冷静にふりほどき、前足で踏みつける。
ガンザノフの胸に爪を突き立て、一呼吸の間、次の言葉を待った。
「まいった」
荒く息を吐きながらガンザノフが宣言した。
その顔は大きく口を開いたアスロの涎でドロドロに汚れていた。
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