第63話 勘

 顎の骨の折れやすい場所へ一発、堅い場所へ一発、鼻か口に一発の割合で拳を散らす。

 しかし、打つ瞬間ごとに体を捩られ、狙った場所には当たらない。

 有利な体勢を確保しながら思うように与えられないダメージはともかく、展開はおおむね理想的だ。

 酔漢たちの無責任な歓声に、アスロは荒い息を吐いて応えた。

 この体勢だと観客の視線から隠れて手足を獣化させることはできない。

 ガンザノフが腕に巻いた包帯が忌々しかった。

 あの、しっかりと巻かれた包帯の下にはハメッドが暗器で刻んだ深い傷があるはずだ。

 それを掻きむしり、押し開いて出血を強いたかった。

 だが、汗や血で濡れた包帯をほどくにはどうしても時間がかかる。

 その時間は隙に繋がり、固執すれば付け込まれる。

 打ち割れた額も、ちぎられた耳の付け根も、絶妙な体の動きで決して手が届かなかった。

 と、ガンザノフの左手がアスロの右手首を掴んでいた。

 心が折れたのか!

 アスロの鼓動が跳ねあがる。

 瞬間、一際大きな動きでアスロの体が打ち上げられる。両足に力をこめ振り落とされないよう踏ん張ったアスロと、ガンザノフの目が合った。

 間を遮っていた腕が二本ともない。

 ほんの僅か、掴まれた左腕に視線が流れた瞬間に消えた。もう一方の手は……?

 アスロの視線が動くより早く、触感でどこにあるかは分かった。

 股間である。

 いかついガンザノフの手がアスロの性器の先をズボンの上から強引にひねりつぶした。

 激痛に思わず腰が浮き、アスロはガンザノフの手を振り払う。

 ドン、と音がしてアスロは地面に転がっていた。

 ついにガンザノフの上から振り払われたのだ。

 起き上がりながら手を伸ばしてくるガンザノフから逃れ、アスロは距離を空けて立ち上がる。

 ズキリ、と右手が痛んだ。見ると手首の付け根から肉が無くなり、血を噴いていた。

 と、立ち上がったガンザノフが口から何かを吐き捨てる。

 血に染まった小さな肉片だった。

 アスロは自分のマヌケさを呪いたくなる。

 『目突きは禁止』とガンザノフは言った。にもかかわらず、ある程度の残虐さを伴った噛み付きについても、漠然と禁止だと思っていたのだ。

 

「なかなか、悪くない!」

 

 血まみれの顔で叫び、両手を打ち鳴らすと、ガンザノフは両手を顔の高さまで上げた。

 その全身は汗で濡れ、地面の細かい砂がへばりついている。

 アスロは右手の指が全部動くことを確認し、ガンザノフを見据えた。

 考えろ。考えろ。

 間合いを詰めながらアスロは高速で思考を繰り返した。

 腕を上げてべた足で呼びかけるガンザノフは、アスロの警戒を誘っているのだ。で、あればアスロはむしろ前進を選ぶ。

 アスロも両手を掲げ、あとわずかで拳打の間合いというところまで進んだ。

 首を横に向ける。肩もそちらへ。あたかも背後を振り向くかのように。

 ガンザノフも一瞬、気勢をそがれたろう。

 アスロが背後に振り上げた足は狙い通りガンザノフの腹に刺さった。

 後ろ蹴り。

 大技はこういうタイミングで決まる。

 アスロがすばやく向き直るとガンザノフが体を曲げていた。しかし、その歪んだ表情は苦しいのか楽しいのか。

 アスロは重心の移動を利用し、右ひざを蹴った。

 前傾であれば足は上げられない。

 重心を逆に動かしながら、逆の足で右ひざを内側から蹴る。

 上手く進めているように見えても、相手は怪物である。最後まで詰めきらないと、どこでひっくり返されるか分かったものではない。

 前進すると見せかけて再度、内側から右ひざを蹴る。

 ガンザノフの両手はアスロに向かって伸びたが、虚しく空を掴んだ。

 効いている。

 アスロはようやく確信を持つことが出来た。

 どこまで怪物じみていても、人間である。

 体力を消耗したのだろう。肩をゆっくりと上下に動かしているのは呼吸が荒れるのを強引に抑え込んでいるのか。

 打撃、組み付き、投げなど、体重の重さはすべてにおいて有利に働く。技術に劣り、体重が軽いアスロが正面から攻めるのは不利である。

 しかし、体重が不利に働くこともある。体力消耗量の増大だ。

 ガンザノフを休ませず、アスロが攻め続けたのは泥沼に引き込む為だった。

 打撃も倒すためのものを用いず、隙の少ないものを徹底して用いた。

 体力の回復速度はある程度の年齢から加齢によって大きく下がる為、壮年のガンザノフがすぐに体力を戻すことは考えづらい。

 ここからだ。

 アスロは高揚する精神を撫でつける。

 徹底して隙を減らした動きから、決めにいく動きに移らなければならない。

 しかも、相手が体力を回復しないようにだ。

 それはつけ込まれる可能性を格段に上げる。

 

「いいねえ」


 ガンザノフが口を開いた。

 両腕を上げたまま、歩くように間合いを詰める。

 左腕が来る。

 ガンザノフの動きからアスロは身構え回避の準備をした。

 しかし、拳は繰り出されず、代わりにアスロの腹へと重たい蹴りに乗って鉄板入りのつま先が打ち込まれる。

 体がギシギシと悲鳴を上げた。

 ほんの一瞬、気持ちが切れた。こういう瞬間、大技が決まる。

 知っていた筈だが、どうしても気持ちがとぎれる瞬間はくる。そこを正確に狙い打てるのは経験の為す技か。

 逆流する胃液を飲み下し、間合いを詰めようとするアスロの顔に右拳が当たる。頭を振って逆襲しようとするアスロの頬を今度は掌打が叩いた。

 たまらずアスロは距離をとって頭を振った。

 確かに、打たれづらい様に動いていた。にもかかわらず、正確に打撃を叩き込まれたのだ。

 才能があるとはこういう事か。

 ここにいたって笑みを浮かべるガンザノフに、アスロの心は飲み込まれ掛けていた。

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