第61話 罵声と歓声
まだ時間が早いからか、客の入りは七割程度。
興奮の度合いも低い。
大半はアスロが勝つと踏んでおり、賭は不成立ということが主催より告知されて、アスロとガンザノフの戦いは始まった。
互いに上半身を裸にし、長い軍用のズボンを穿いていた。
ガンザノフは脛までの長さの鉄板入り半長靴を履いたままであるが、アスロは靴を脱ぎ、裸足になっている。
身長や腕の長さに大きな差はないが、体重はガンザノフの方が一回り以上重い。
これは徒手空拳の戦いで組み合い、打ち合いに関わらず全ての場面で不利に働く要素である。
「目突きだけは反則にしようや。客の手前もあるしなあ」
試合前にガンザノフが言った言葉を思い出しながらアスロは間合いを計った。
客に混ざってチラホラと狼の教導隊の連中も見える。
興行側として、行きすぎた流血は避けてくれと言ったクロックには悪いが、勝利を目指す以上、とれる手段は限られていた。
ガンザノフはジリ、と横に動く。
重心を低く、その視線はタックルを狙っていた。
掴まれれば一呼吸のうちに折られる。アスロはそれを覚悟していた。
たとえ、手足を折られようと、手を虎のものに変じ、その瞬間に首か背骨を掻き切れば勝利である。
それ以外だと、密着した状況での技量に差がありすぎ、勝利のイメージがつかめなかった。
ハメッドが穿った傷口を塞ぐように左前腕には血の滲んだ包帯を。
左手外側の指二本はへし折られて、こちらも包帯で中指と強引に固定されている。
左手の握力はほとんどないし、打撃にも用いない筈だ。
そう決めてアスロは距離を開けたまま素早くガンザノフの右半身側に回り込む。
ガンザノフもアスロにあわせて向きを変えるが、アスロは足を止めず円弧を描きながら左に回り続けた。
こうすることで、およそ右の拳以外での攻撃がやりづらくなる。
しかも怪我をしている左手を心の奥底では使いたくない筈だから、自分へのいいわけにもなり、いざ左腕を使うべき場面が来ても使用を迷う事も期待できる。
並の相手ならそれで問題ないはずだ。多くの経験から、アスロは面白味はないが堅い戦法を選択していた。相手が並ではないとしても、その戦法を選ばない理由がない。
ガンザノフが焦れて強引な前進をすれば隙を突く。隙がなければ下がって再度、回転を続ける。
「なにやってんだ、コラ! 殴り合え!」
ガンザノフよりも先に客が限界に来たらしく、怒鳴った。
彼らは労働のガス抜きにここへ来ているのだから、退屈な試合を見たくはないだろう。
「おお、こりゃ失礼!」
怒鳴った客に対してガンザノフが大声で詫びた。
と同時に重心が変わる。
低い位置への組み付きを狙うそれから、ただ、散歩するような自然体へと。
「つまりこうだろう!」
ガンザノフはまるで友人に挨拶でもするように顔の横まで右手をあげ、アスロに歩み寄ってきた。
隙だらけと言えば隙だらけ。
アスロの脳裏には相手の下半身への回し蹴りが浮かび、すぐに打ち消される。
向こうの靴には鉄板が入っている為、合わせて迎撃されると脛が砕けかねない。左腕は下がっているので、掴まれかねない前蹴りも危険だ。相手右脇腹への蹴りか、顔面への殴打。
相手の動きに制限を掛けていた筈の自分が、突然難解な問いに放り込まれる。
しかし全ての思考を無駄なく動きながら済ませ、アスロは距離を詰めて迎え撃っていた。
左腕での牽制打にガンザノフが弾ける。
勢いのまま、振り抜かれた右の決定打は、しかし空を切っていた。
同時に、打ち込まれた太い右拳がアスロの胸に炸裂して重い音を立てる。
互いの前進により間合いが近づきすぎている為、興奮したアスロに有効打となるほどではない。
即座に重心を落としながら、左拳でガンザノフの顔面を打ち抜こうとするアスロに、ガンザノフの左手が降り注いだ。
掌底打ち。
前進に合わせて打ち抜かれた一撃によりアスロの平衡感覚は消失した。
腰と膝が紙細工のように力なく崩れ落ちる。どちらが上か下かもわからない一瞬の無重力感。
アスロは衝撃から、尻から地面に落ちた事を知った。
急速に戻ってくる身体感覚を総動員し、辛くも後転で背後に逃れる。
地面から立ち上がると、ガンザノフが観客の声援に手を挙げて応えているところだった。
正面からの乱打戦はやらないと決めていたにもかかわらず引きずり込まれ、挙げ句には地面を舐めさせられた。
意識が戻るのが一秒遅ければ、鉄板の入ったつま先を打ち込まれていただろう。
掌底で撃たれた頬が痺れていた。
当たっていたのがもう少し下だったら立ち上がれずに仕留められていのだ。アスロの背筋には冷たい汗が浮いた。
腹の底まで落とし込む様に深く、一呼吸、二呼吸。
怖気を払い、ガンザノフを睨む。
涼しい表情をしているが遊ばれた訳ではない。
直前までアスロに有利だった流れを強引に奪われたのだ。
その証拠にガンザノフも、もつれ合いを避けた。
アスロの手足が刃物と化す事を知っている。
向こうもこちらを恐れ、警戒している。それは油断を見せないという点で厄介ではあるが、力に寄って生きる者として、自信となる。
まずは再び、流れを奪い返さねばならぬ。
ガンザノフとともに間合いを詰めながら、アスロは高速で思考を働かせた。
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