第60話 直前
唇をツンと尖らせたルドミラは、日が沈んで暗くなった街路をずんずんと進んでいく。
アスロは候補生の大男とともに少し後ろからそれについて行くわけであるが、候補生は厳めしい表情を浮かべていた。
そうこうするうちにルドミラは教会までたどり着き、敷地の前でくるりと振り返る。
ようやく顔を見ることができ、アスロの心は弾んだが、ルドミラはわざとらしく作り笑いを浮かべて口を開いた。
「ほな、お客さん。見送りありがとう。また銭もって来てや」
それだけ言うと、アスロの言葉も待たずにパタパタと駆けていった。
敷地に並んでいた死体はすっかり片づいてしまっているが、雑然とした人々にまだ混乱が見て取れる。
もはや自分はその一団から飛び出てしまったのだ。
アスロは教会と街路の境を見つめて考える。
今後、不用意に立ち入ればアスロとて排斥の対象になるという事だ。
ひょっとすると、自分を平然と受け入れてくれた彼らとは二度と会わないかも知れない。
それでなくとも、この後には生き残れるかさえ怪しい難事が待ちかまえているのだ。
「待たせたな。行こうか」
アスロは候補生に声を掛けた。
自分は正規兵、彼は候補生なので態度は努めて大きくしていく必要がある。
候補生は不満そうな表情を浮かべながらも、顎をしゃくってアスロの先を歩き出した。
と、背後から声が掛けられる。
「アスロ、待たんかい!」
アスロには振り向くまでもなく、それがルドミラの声だとわかった。
教会の建物と街路の中間で足を止め、叫んでいる。
「死んだらあかんぞ、生きて帰って来い!」
アスロは振り返り、ルドミラの顔を見た。
複雑な表情で、眉間には皺を寄せている。
何を叫び返すか、考えたけれどもうまく言葉を探せなかったアスロはゆっくりと手を挙げてルドミラへ向けて振った。
ただそれだけ。ほんの些細なやりとりにはそれ以上会話もなく、アスロは拳闘会場へと向き直り、足を進めるのだった。
※
「や、遅かったね」
ガンザノフは会場の外でゴロツキたちとテーブル代わりの木箱を囲み、談笑しながら酒を舐めていた。
最初、アスロは彼の存在に気づかずに通り過ぎ、背後から声を掛けられた形だった。
血は止まったとはいえ、片方の耳がなく、また折られた二本の指は包帯で固定してあった。
それでも、周囲の酔漢への馴染み方が異様に上手く、アスロの視線に入らなかったのだ。
先導役の大男も気づかなかったようで、アスロが気づいたのと同じタイミングであわてて敬礼を捧げていた。
「やめろ、やめろ。無粋だ」
自分より頭二分は大きい教え子を冗談ぽくしかると、ガンザノフは酒瓶を木箱に置いた。
「奢りだ、飲んでてくれ」
周囲の酔っぱらいたちが声を上げて瓶を奪い合う。
「傷に障るから、酒はいかんのだろうが、失血で寒いんだよ」
へへ、と笑いながらガンザノフがぼやいた。
コートの袖からは包帯が見えているので最低限の治療を行ったことは間違いないだろう。
「おい、ユーリ」
酔っぱらいを押し退けて髭面のゴロツキが寄ってきた。
拳闘の運営に携わるクロックだった。
クロックは親指を立ててガンザノフを指し示す。
「こちらの紳士がオマエと戦いたいそうだが、問題はないよな?」
いくらか金を貰ったのであろう、ホクホクとした笑顔でアスロに問いかけた。
アスロとしても、そのつもりでやってきたのだから、今更文句があろう筈もない。
「勿論。ただ……ガンザノフさん、ニナはどこですか?」
「ここは寒いからね、中で部下が看ている」
アスロと別れたとき、ニナは相当に消耗していたが、看ているということは、体力が戻っていないのだろう。
「お願いなんですが、僕が負けたとき、彼女に出来る限りの事をしてもらえますか?」
「嫌だね」
アスロの願いをガンザノフはにべなく払いのけた。
陽気そうな笑顔を覗かせるが、呼気から酒の臭いは感じ取れない。
また、同時に常人なら脂汗をたれ流し、耐え難いほどの激痛を体の各所に抱えているはずだ。
しかし、振る舞いにダメージの影響を見せていない。
「君は今から、この私と戦うのだ。やがて勝敗が決するのだろうが、戦う前から負けることを考えられると萎えてしまう。どうせなら勝った時の条件を付けたまえ。なにより私は弱者にそれほど興味がない。もし君が負けたら、その首をへし折って終わりだ。あの女の子もボージャ閣下に渡して、後のことは私が知った事か」
その視線がアスロの頭頂部からつま先まで舐めるように見ていく。
なんだか内臓がさわられている様に不快で、アスロはおもわず身をよじった。
しかし、なるほど。確かにガンザノフの言うとおりではあろう。
鼻から深呼吸をして、覚悟を定める。
「わかりました。じゃあ、僕が勝ちますので、その時は僕と彼女を見逃す様、部下に命令をしておいて貰えますか。たぶん、手加減をしたってあなたを殺してしまうから、その前に」
戦う前に敗北の事など頭に入れない。
革命軍最強の男が示す思考法に乗っかってアスロは宣言した。
効果はすぐに感じられ、自分でもびっくりするほど、その言葉はアスロ自身を鼓舞するのだった。
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