第59話 多幸感

 普段、鋭敏なアスロの感覚は廊下を人が歩いただけで深い睡眠からでも覚醒を促す。

 それが、扉を叩かれるまで、それも何度も叩かれるまで目が覚めなかったのは、やはりすっかり安心しきっていたからだろうか。

 心地よい疲労感が全身に残っているものの、鉛を流し込んだような苦痛に似た疲労は消失していた。

 ランプに灯りを灯すと、食い散らすように食べた果物の種や皮を蹴り飛ばしながらズボンをはく。シャツを着て上着に腕を通す。

 机に乗った大振りのナイフを取ろうとして、空になった粥の木椀を床に落としてしまった。器はカツン、と音を立てて床を転がる。

 器を拾い上げて机に戻すと、ブーツに足を突っ込み、雑用の水桶で顔を洗った。

 

「アスロ、時間だ。出てこい」


 来訪者が戸を叩きながら声を上げた。

 野太い、張りのある声だ。

 

「待っていろ。すぐに行く!」


 アスロも怒鳴り返して準備を進めた。

 ナイフと拳銃を身に着けていると、ルドミラがガバッと起き上がった。


「え、ウチいつの間に寝てた?」


 布団がはだけ、しなやかな裸体がさらされるが、今更隠すつもりもないのだろう。

 

「て……もう行くんか?」


 すっかり服を着こんだアスロを見てルドミラは慌てて立ち上がった。

 脱ぎ散らかした服を掴むと、手早く身に着けていく。


「落ち着いて着替えたらいいよ。少しくらい遅れても怒られはしないだろうから」


 アスロは隠されていく裸体を、惜しいなと思った。

 ほんの数時間前、彼女を抱き、あるいは抱かれて先ほどまでそのまま寝ていたのだ。

 心にこびりついていた様々なことが全て吐き出されたかのように、思考が澄んでいた。

 確実に残っている筈の肉体的不調を感じられないのは思考と精神の働きによるものだろう。

 あれだけ心に覆いかぶさっていた理想主義や叩き込まれた思想論がどれもバカバカしく陳腐に思える。

 今ならどれも蹴散らして笑えそうだった。

 その妙な万能感と高揚がフワフワと体を軽く感じさせていく。

 可能なら、今から服を脱いでもう一度、ルドミラに挑みたかった。そして、そのまま再び飽きるまで眠っていたかった。

 しかし、そうはいかないのだ。

 アスロはぼんやりと薄暗い部屋で、ガンザノフの顔を思い出した。

 ハメッドを退けた怪物が、妙な笑顔を浮かべて自分を待っている。そいつを倒してニナをすくわねばならない。

 ルドミラが持ってきた粉砂糖を紙袋からサラサラと口に流し込んだ。

 水で飲み下すと、口直しにブドウをいくつか口に放り込む。

 

「ええと、忘れ物はないな。ほな、いくでアスロ。狼退治や!」


 部屋の中を何度も見回したルドミラが景気よく叫んだ。

 この少女と居れば自分は無敵でいられる。比喩じゃなしに、そう思った。

 しかし、その不死性は自ら断ち切らねばならぬ。


「ルドミラ、帰りに送るからさ、教会に戻ろう。君は帰るんだ」


 いまだかつて、これほど発したくなかった言葉があっただろうか。

 ルドミラの顔には硬い表情が張り付き、アスロを見つめていた。

 

「いい、いいよ。ウチも行くから」


「駄目だ。ユゴールさんのところに戻ってくれ」


 ルドミラの視線に耐え切れず、目を逸らしながらアスロは告げる。

 ここに討論の余地はない。


「……なんでなん。抱いたら用済みってことなん?」


「違う。違うんだルドミラ」


 今から向かうのは敵が大勢いる、いわば敵地である。

 ガンザノフとの勝負に勝ったからといって無事に帰れるとは限らない。

 それに、そもそも負けることも十分にあり得るのだ。

 そうなれば、同行者にも被害が及ぶ恐れがある。

 その点、ユゴールの元に居れば一定の安全性は確保される。

 そういったいくつかの思考が脳内でモヤモヤと絡み合い、言葉になる前にアスロは頬を張られていた。

 

「娼婦やからか。抱かれるしか能がないもんなぁ!」


 違う。

 その言葉がうまく出てこない。

 

「まだか!」


 再び扉が叩かれ、外の男が呼んだ。


「とっくに終わっとるわい。やかましいのう!」


 言葉も行動も上手く選べないアスロの横を通り抜け、ルドミラが部屋の扉を開ける。

 扉の外には一際大きな男が立っていた。教導隊のコートに身をくるみ、冷たい視線を上から降らせてくる。体格だけならウーデンボガに引けを取らない。

 そんな男を無理やり押しのけてルドミラが廊下に出た。


「勝手に連れていけ。ウチは勝手に帰る」


「待って、送るから!」


 追いかけて廊下に出たアスロの襟首を男が掴んで捕らえた。

 少し首を振ってみたが、手はビクともしない。

 

「少佐が待っておられる。オマエはこっちだ」


 腕力、目の動き、重心、隙の無さ。

 なるほど、アスロが戦った連中とはモノが違うらしい。

 

「わかった。おとなしくついていくから放してくれ」


 両手を挙げるアスロを見て、男はそっと手を離した。

 恐ろしい男だ。

 そのまま戦闘に入っていたらアスロは負けていたかもしれない。

 本能が恐怖を呼び寄せ、背中に汗を噴き出させていた。

 

「ところで、拳闘の会場はどうせ教会の向こうだろう。途中まであの子を見送ってもいいかな。そうしないと集中して戦えない」


 ガンザノフはアスロと正面からの戦いを望んでいる節があった。

 すると、男は面倒そうな表情を浮かべ頭を掻く。

 こんなこともあろうかと、拳闘会場とは教会を挟んで反対側の方角で宿を取っていたのだ。


「構わんが、逃げたり妙なことをしようとすればすぐに殺すぞ。オマエも、あの女も」


 ルドミラを殺すと言った巨人に、強烈な殺意が沸き掛けたものの、ルドミラを送り届ける件は叶うのだ。

 心を落ち着け、アスロも頷いて答えた。

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