第57話 聖女
アスロは銃を地面に捨てる。
持っていてもどうせ、撃たせてくれないのだ。同時に、ガンザノフの行動への制限も大きく削がれてしまうが、どのみち目的ははっきりしている。
「ガンザノフ大尉、改めて挨拶をします。第二独立名誉小隊所属の特殊兵、アスロです」
右手が頭まで上がりそうになったが、途中で下げる。軍隊式の挨拶などはしない。してたまるか。
「うむ、狼の教導隊所属の大尉、ガンザノフだ」
ガンザノフはアスロの方へ向き直り、腰に手を当てたまま、朗らかに挨拶を返した。
「あの……ハメッドさんを救助したいのでどいていただけますか? ほら、顔も真っ青になってきている」
ガンザノフの視線がハメッドに落ちた瞬間、アスロは跳んだ。
数度の戦闘による影響で、手足は鉛のように重たい。それでも、常人ならざる跳躍力は健在だった。
勢いに体重を乗せた飛び膝蹴りがガンザノフの胸を狙う。
当たればよし。受け止められれば自由な両手で顔面に殴打を加える。
しかし、ガンザノフは地面すれすれまで素早くしゃがむとアスロをやり過ごした。
アスロは着地すると同時に背後の空間へ後ろ蹴りを繰りだす。
背後でズボンの裾が握られるのを感じた。
折られる。そう思うと同時にアスロは前転で逃げる。
本当は掴まれた足を基点にして回転し、ガンザノフのバランスを崩しつつ手を掻き切ってやろうと思っていたが、あっさりと外されたので目論見が外れたのだ。
飛び上がる様に立ち上がり、ガンザノフの間合いから飛び出ると、はじめて互いの間に何もない状態で向かい合うことになった。
と、ガンザノフはあっさり視線を逸らし、あらぬ方向に歩きだす。
そちらにはリリーが立っており、ガンザノフは親し気にリリーの肩に手を回した。
今、飛びかかればいい。思考はゆっくりと判断し、答えを出した。
張り詰めた緊張感をうまくすかされ、アスロは悠長に歩くガンザノフをただ見つめていることしか出来なかった。
「まあ、待てよアスロ。俺たちがこんなところでジャレあったらハメッドの治療に差し支える。こんな優秀な男が死んでしまうのは祖国の損失だ。なあ、お嬢さんもそう思うね?」
ガンザノフは鬼のような表情を浮かべるリリーの横顔に優しく語りかける。
グリースが効いたのか、額と耳の血は止まりつつあった。
老獪だ。
アスロは身構えたまま眉間に皺を寄せてガンザノフを睨む。
戦闘技術は当然として、詐術に近い化かし合いも平然とこなし、姑息な手段も厭わない。
なるほど、やっかいである。
このやりとりで間を持たせ、その間に血を止めた。
失った血は多いが、呼吸はすでに整っている。
「さて、ユゴール。『聖女』を呼べ。ハメッドの怪我は命にかかわるぞ。壊した私が言うのだから間違いない。なに、心配するな。ボージャ閣下の為に見極めるのさ。その女が潰しても潰しても次々と祭り上げられるインチキ霊媒どもとは違うのか。本当に奇跡を起こす者か。ボージャ閣下は強い興味を抱いておられる。当然、俺もだ」
ユゴールもリリーも下唇を噛み千切らんばかりに懊悩している。
と、人垣を割ってニナが顔を出した。
「どいて、どいてください」
ニナは第六小隊の兵士たちを押しのけてガンザノフとアスロの間に立つ。
その背中はまるでアスロをかばうようだった。
「私が、あなたのいう『聖女』です」
ガンザノフはニナの頭から足までを見つめ、二本の指が折れた手を顎に当てた。
「ふむ、思ったほどはそれっぽくないね」
ありがたい衣服に身を包んでいろとでもいうのか。アスロは形容しがたい怒りに襲われ、身悶えした。そういうものを禁止したのが党なら、そういうものを刈り取るのが特別名誉小隊の仕事だったではないか。
「とにかくどいてください。怪我を治します」
ニナはガンザノフの脇を通ってハメッドの横に腰を下ろした。
その場にいる全員の視線がニナの秘中の秘に注がれている。
こうなることをニナは嫌がっていた筈で、しかしこういう事態まで追い込まれたことに、アスロは激しい無力感を感じる。
日光の下ではそれほど目立たないが、淡い燐光が浮かびニナの周囲を飛び出した。
陥没し、赤い泡を吐いていたハメッドの顔面は徐々に盛り上がりを取り戻し、ゆっくりを復元していく。
顔面の復元がおおよそ終わった頃、ニナはハメッドの上にバタリと倒れ伏した。
「ニナ!」
アスロはあわてて駆け寄り、ニナを起こす。
ニナの白い肌は青いほど色が生気が抜け、唇がひび割れていた。
ニナの視点はうつろに震えながらアスロをとらえるとあえぐように声を絞り出す。
「……今日はもう、ダメみたい」
自らに内在する生気をすべて放出してしまった様にかすれた声がアスロの耳朶をたたく。
ハメッドをチラリと見て、アスロはニナの体を抱きしめた。
アスロの怪我も治して、今し方、ハメッドの怪我を治した。
もしかするとその前にもハメッドの治療に当たっていたのだろうか。そうなれば一日で都合三度も奇跡を体現して見せたのだ。
それも自らの体力と引き替えにである。
まごうことなく、聖者ではないか。
アスロはそう思った。
奇跡の能力あるなしではない。
必要なときに自らの身を捧げ、それを躊躇わない姿勢にアスロは聖性を見たのである。
「なるほど、完治にはほど遠いが生命の危機は脱した様だ。使えないこともないだろう」
すっと延びてきた手がむんずとニナの首根っこを捕まえて引き上げた。
そのまま肩に背負ったのはガンザノフである。
完全に油断していた。アスロがそのことに気づくよりも早く、ガンザノフの足がアスロの後頭部を蹴り飛ばしていた。
即座に立ち上がろうとするものの、脳が揺れて立てない。
頬を地面に張り付けたまま、回復を待たねばならなかった。
無様なアスロにガンザノフは勝ち誇り、いや、実際に勝ったのだ。その気なら追撃をして殺せている。
そんな勝者は這いつくばる敗者に向けて優しく声を掛けた。
「この娘は預かっていこう。もちろん、丁重に扱うさ。さてこの街には拳闘の興行が立つらしいね。どうだい、今夜、そこできっちりと決着をつけないかね。嫌なら来なくても構わんが、そうなると俺が娘は連れていくし、オマエには改めて追っ手を掛ける。ああ、ユゴール。アスロが昏倒して今の言葉を覚えていなかったらオマエから伝えてくれ」
そう言い残して悠々と立ち去るガンザノフの背中を、アスロは無念と無力感に打ちひしがれて見送るのだった。
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