第56話 人質
ガンザノフはへし折られた左手の指を強引に丸め、拳を作った。
あらぬ方向を向いてぶら下がっている指は呼吸をするだけで激しく痛むはずだ。
常人なら拳を作るどころか、身動きも困難になる。
そんな脳髄に響くほど痛い筈の損傷を、狼は涼しい顔をしたまま無視している。
「前菜にしてはなかなかのボリュームだ」
左手を拳に、右手を開手にして構えるガンザノフは欠損した耳と額から噴き出す血を無視すれば、先ほどまでと変わらない雰囲気を保っている。
対するハメッドは大きく息を吸い込んで、ガンザノフに向かい唾を吐いた。
挑発?
アスロは思ったが、実際にハメッドの口から発射されたものは一連の動きの中で折られた前歯だった。
歯はガンザノフの頬に当たり、横に飛んで行った。
しかし、ガンザノフも唾だと思った筈だ。
その証拠に、思ったものと違う感触に、飛来したものを無意識に視線が追いかけた。
一瞬、ハメッドから視線が切れる。
ハメッドの右手が素早く、自らの後頭部を撫でた。その右腕が、そのままガンザノフのわき腹に突き刺さる。
いや、ガンザノフの左腕はその一撃をきちんと防いでいた。しかし、その傷から鮮血がボタボタと滴り落ちる。
ガンザノフの右手はハメッドの右手を引っ張り、強引に体勢を崩した。
ハメッドの体は向きを変えられ、ガンザノフが一方的に攻撃を出来る。
ガンザノフは左拳でハメッドの顔面を殴った。
しかし、ハメッドは柔軟な状態をグニャリと曲げて、間一髪それをかわした。
瞬間、アスロの目にはガンザノフの楽しそうな、嬉しそうな笑みが映る。
ガチ、と音がしたと思えばハメッドの右足が強烈に払われ、蹴り上げられていた。
常人なら転倒を免れないところ、ハメッドは片足でバランスを取り持ちこたえる。
結果論で語るのなら、あるいは倒れていた方がよかったかもしれない。
ガンザノフはハメッドの右足ズボンの裾をつまむと強引に引きよせ、脇に挟み込んだ。同時に左足にも足を置いており、反撃を封じている。
ハメッドのふくらはぎに腕を絡め、固定し、ガンザノフが体を後ろに傾けると、ポキッと乾いた音が響いた。
梃子の原理で脛を折ったのだ。
その後も、右足を脇から離さず、ハメッドの体重を支えている左ひざを蹴り折った。
ブチンと、弾力のある太い紐が切れたような音が鳴る。靱帯の断裂音だった。
なすすべなく、今度こそ地面に倒れたハメッドの上に乗ったガンザノフは、ハメッドの右腕を取ると、これも肘からへし折る。
痛いはずだ。
しかし、ハメッドは額に血管を浮き上がらせつつ、うめき声の一つも上げない。
「さて、堪能した」
ハメッドの左腕をひざ下に敷きながら、ハメッドの腹にガンザノフはドッカと腰を下ろした。
「生活に不便だろうから左腕は残しておいてやろう」
「……そら、おおきに。どうも」
ハメッドが答えた瞬間、その顔面にガンザノフの右手が鉄槌となって撃ちおろされた。
砕けた鼻に、容赦のない一撃。
ガンザノフが手を抜くと、ハメッドは口から血の泡を吐きながら痙攣していた。
周囲に静寂が立ち込める中、ガンザノフは立ち上がり、左腕から何かを引き抜き、投げ捨てた。
地面に転がったそれをアスロは知っていた。ハメッドの髪留めだった。
握りこめば鋭利な金属の棘が飛び出るようになっている。
アスロがそれを見てのんきに、女の子へ同じようなものを送りたいと思った髪留めである。
なるほど、暗器だったのか。アスロは妙に納得した。
目の前でハメッドが壊された経緯を、アスロは冷静に見ていた。
アスロはハメッドが嫌いではなかった。むしろ頼りがいがあり、好ましく思っている。しかし、そんな感傷が入る余地もなく、肉体と頭脳が戦闘の準備をしていた。
次は自分なのだ。
ガンザノフの動きを見れたのは要素として、大きい。それにいくつか、大怪我も負った。
気持ちが冷たくなっていき、ガンザノフが投げ捨てた髪留めを拾う算段を探す。
「ハメッド、あかんぞ。死ぬな!」
ユゴールが叫びながら駆け寄り、ハメッドに取り付いた。
もちろん楽観はできないけれど、今から適切な治療を受ければ死にはすまい。
素手を用いても大勢の人を殺してきたアスロは、正確に損傷の程度を計っていた。
しかし、従前の戦闘力を取り戻せるかは大いに危うい。
「そっと運べ。リリー! こら、泣いてる場合と違うぞ!」
見れば、リリーが目を真っ赤にして涙を溜めていた。
数人の男たちが担架を持って駆けつける。
しかし、その前にガンザノフが立ち塞がった。
「待て、ユゴール。止血用のグリースをくれ。耳の血が止まらん」
ひょうきんな口調で見せる傷口からはだくだくと血が流れ続けている。
「知らんわ。馬糞でも塗っとけや!」
さすがに耐えかねたのか、ユゴールが怒鳴った。
しかし、ガンザノフは頷くとゆっくりとハメッドのわき腹に足を置く。
「肋骨と胸骨も折っておこうか?」
ユゴールの回答次第で、その足は一息でハメッドの胸に埋まるだろう。
と、別の方から濃緑色の缶が投げつけられ、ガンザノフは受け止めた。
「その薄汚い脚をさっさとどけんかい!」
缶を投げたリリーが呻くように言う。
ガンザノフは人好きのする笑みを浮かべると、ハメッドの上から足を退け、缶を開けた。
中から白濁したグリースを指につけると、額と耳に塗り込む。
「お嬢さん、そう睨まないでくれよ。挑んできたのはこの男だ。挑発したのは私だがね」
忌々しい表情で歯を食いしばるリリーは無言のままうつむいた。
周囲に居並ぶ第六小隊の誰もが銃を撃たないのは、それをすれば一族の存続が危うくなることを知っているからだ。
アスロは別で、第六小隊とは別だと認められたのだからいつ撃っても、襲い掛かってもよかった。
しかし、ガンザノフは常にジプシーの一党を背にするように動いており、また、ハメッドを倒した後はその体をアスロとの間に置いている。
襲撃が有利にならない。そうしてアスロは縫い留められていた。
「しかし、この男は動きに影響が出るほどの怪我を負い、治りきっていなかった。そりゃあ、弱いと断じたくもなる。奇妙に柔らかく動く上体も、素早い踏み込みも、異常な足の力が要だろうが、その足が駄目だったのだ。さて、その怪我を負わせたのがアスロ、君であってくれれば、うれしいのだが」
「能書きはもう十分ですから、どいてくれませんかね、大尉殿」
ガンザノフは担架を前にどこうとしない。
「いや、なに。せっかくだからアスロが連れて行ったという『聖女』の能力も見ておきたくてね。いるんだろう。出しなさい」
一族そのものの命運を握った男は相変わらず微笑みながら、ユゴールと、アスロに向かって命じるのだった。
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