第55話 狼と悪魔
ハメッドの足は滑るように地面を移動し、一瞬でガンザノフの目前まで体を運んだ。
見えない!
どうしても見たい。考えるよりもアスロは老婆を離して、跳躍した。
ジプシーの男たちを飛び越え、ハメッドとガンザノフの目前に着地する。
アスロの視線が二人から切れたのは、ほんの一瞬で、次に二人を視認したときにはハメッドの左腕がガンザノフのわき腹に突き刺さっていた。
いや、肘できっちりと防いでいる。
「んん、いいねえ」
優しげですらあったガンザノフの表情が禍々しい笑みに彩られていた。
しかし、アスロは知っている。
巨人の一撃のごとく重たい打撃を受けて、即座に反撃ができるはずがない。
事実、ガンザノフもバランスを戻せないまま、次の一撃に襲われた。
顎を砕こうとする右のフックはガンザノフが盾代わりにした左肩に炸裂する。
しかし次の瞬間、ハメッドがバランスを崩していた。
アスロの優れた動体視力でどうにか視認できた小技を、当人たちの他に誰が理解しただろう。
ガンザノフがハメッドの服の左袖を掴んでいたのだ。
右腕を突き出す時に、引き戻される左腕を抑えると、当然に威力のある攻撃はできなくなる。
同時に、前に出ていたハメッドの左足も払われていた。
常人なら転倒を免れない技を、ハメッドはバランスを崩しただけで持ちこたえる。
「チッ!」
捕まれた腕を振り払おうと強引に腕を引いたハメッドの袖はあっさりと解放された。
守りの腕が消えたハメッドの顔にガンザノフの右手が伸び、顔の手前で急降下して襟を掴む。次、強引に手を引いたのはガンザノフだった。
引き寄せられたハメッドの顔にガンザノフが額を叩きつける。ガツン、というくぐもった音が響いた。
アスロはハメッドの覚悟に舌を巻く。
一瞬で逃げられないと判断したハメッドはガンザノフの頭突きを自らの頭突きで迎撃したのだ。
互いの額が裂け、鮮血が吹き出る。
極度に接近した二人は即座に次の動きに入る。
ハメッドの長い右腕はガンザノフの股間に延び、ガンザノフの左腕がそれを防ぐ。
ガンザノフは再度、頭突きをするために右腕でハメッドの首を突き放し、距離を開けた。
二度目の頭突きは今度こそハメッドの鼻面に叩き込まれた。
鼻骨が砕ける音がしてハメッドはよろめく。
ようやく、ガンザノフはハメッドの襟を離し、その胸を突き飛ばした。
その腕で自らの左手、小指と薬指を掴んでいるハメッドの手をたたき落とす。
ガンザノフの左手は外側の指が二本、あらぬ方向に折れ曲がっていた。
右手の平からも、血が湧き出ている。
「痛え!」
額と鼻から大量に血を流しながら、妙な口調でハメッドが舌を出した。
砕けた鼻に指をつっこみ、形を整える。
ガンザノフも悪戯っぽく舌を出しているが、顔面は鮮血に染まっており、左手の指は力なく震えている。
「周到なヤツめ。うちの教官に欲しいわ」
ガンザノフが右手の傷を見つめながらいった。
深く何かが刺さって、裂けたような傷が数個、指の腹と手のひらに刻まれている。その傷を見て、アスロもようやく怪我の原因に推測が着いた。
ハメッドは服の襟に、針のようなものを仕込んでいたのだ。
同時に、それにもかかわらず掴んだまま二度も頭突きを断行したガンザノフの恐ろしさにも戦慄する。
がっちり握り込んで、引っ張るということは傷を深め、激痛を伴ったはずだ。
指を引き抜いたハメッドの鼻から大量の血液が吹き出す。強引に鼻孔を通したのだ。
ダメージとしてはハメッドの分が悪い。
それでも次に仕掛けたのはハメッドからであった。
再度距離を詰め、直前で動きを止める。
ブウッ、とハメッドは血煙を口から吐き出した。
鼻を砕かれ、口に流れ込んだものだろう大量の血がガンザノフの視界を塞ぐ。
しかし、ガンザノフは顔を下げながら前に出た。
一瞬の後、ハメッドの顔があった位置をガンザノフの太い腕が音を立てて通過した。
肩を基点に、まっすぐ伸ばした腕をグルリと振り回したその技は、まるで子供の悪ふざけの様だったが、受ける側としては視界の丈夫から拳が高速で降ってくるに等しい。
受ければ知らぬうちに昏倒してしまっただろう。
ハメッドの幸運は、血を吹いた後に上体を大きく後ろに反らせたことだ。
顔面は拳を紙一重で避け、重心を保つように跳ね上げられた足がガンザノフの腹に突き刺さる。しかし、浅い。
背を曲げた人間の腹は常より打撃に強い。
それでもガンザノフは大技を出した直後のバランスも相まって一瞬の隙をさらした。
ハメッドのジャブ。
いや、握られていないバラ手打ちがガンザノフの右耳に炸裂する。
軽く素早い一撃は、鼓膜を破ることはかなわなかった様だが、本来の目的を掴むことには成功した。
つまり、耳そのもの。
頭部の動きを制したハメッドは右手を握った。しかし、親指だけをわずかに立たせた不格好な拳である。
その親指を、握り込んだ棒に見立ててガンザノフの顔面に突き立てたのだ。
目潰し。
当てずっぽうで差し込まれた指は、そのまま眼窩を探り当て、眼球を潰す。ほんの一瞬で決まるはずの単純な技は、しかし実際に目を潰すことはできなかった。
ガンザノフが強引に頭部を振ってハメッドの拘束から逃れたのだ。
二人は距離をとって視線を交わす。
周囲を囲む第六小隊も、アスロも、自分たち以外は何一つ存在しない空疎な空間に二人は立っていた。
「思いのほか、やるな。楽しいぞ、おい」
顔面を染めた血を拭いながらガンザノフが笑いながら血を拭う。
対するハメッドは手に残ったガンザノフの右耳を投げ捨てて血の唾を吐き捨てた。鼻と額からは大量の血液が流れ続けている。
「こっちゃ、男前が台無しや」
互いに無数の怪我を負っていながら、どちらも自らの勝利を全く疑っていない目つきをしていた。
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