第52話 人喰い

 アスロの咆哮は果たして人のものか、獣のそれか。

 飛びかかりながら身体が虎に変化していく。

 男はあわてた風も無かったが、足下をぬかるませるほどの血により動きが激しく制限された。男が盾代わりに構えた山刀を掴んだ手ごとかみ砕き、アスロの前足は男の胸を踏み砕いた。

 ボキリという音が響き、男の体が痙攣する。

 胸骨と一緒に脊椎までが砕けたのだろう。

 アスロは大口を開けると男の首筋に噛みついた。

 そのまま首を引き抜くと、欠損した男の首から大量の血が吹き出し、アスロの顔を朱に染めた。

 口に満ち、喉を潤す血と肉がアスロの興奮を増加させていく。

 続いて胸骨を器用にはぎ取り、その下に隠された心臓を見つけると、まだ動き続けているそれをアスロは一口に噛みちぎった。

 生命の最後の鼓動を感じながら、全身に快楽が満ちてくるのも知覚する。

 旨い。

 アスロの虎としての本能が次の一口と、次の心臓を欲した。

 金に光る視線が周囲に転がる子供たちの死体に向けられる。


 所詮、薄汚い獣だな。


 耳の奥から聞こえた声がアスロの頭をガツンと叩きつけた。

 同時に獣化は解け、ほんのしばらくの後、アスロは顔を血に染めた少年に戻っていた。


 なんだっていうんだ。クソ!


 腹の中をくだっていく心臓が再度脈を打ち、内蔵を刺激する。

 自分の中の獣性と、かつて自分を見下したボージャの一言がアスロの自尊心をひどく傷つけていた。

 初めてボージャの前で虎に変じ、襲撃してきた暴漢を撃退したときに言われた言葉である。

 それ以来、ボージャは急速にアスロへ対して冷たくなり、アスロが虎に変じること自体を禁じた。

 もちろん、与えられる任務の難度を鑑みれば生身でばかり対応は出来ない。

 それでも極力、腕や足の一部のみを獣化させるようになったのはそれがきっかけだった。

 

「虎に変じなければ死にます」


 そう反抗したアスロに、まだ幼さが残る頃のボージャは言った。


「生き残る為に獣になるくらいなら人間のまま死ね」


 人間の獣性をひどく嫌う男だった。

 革命の折り、貴族の子供として衆民に追い立てられたボージャはもしかしたらアスロが考えも及ばないような人間の獣性を見たのかもしれない。

 アスロは震える奥歯をかみしめると、口周りに付着した血を腕で拭う。

 なま暖かく、臭い。そうして、アスロの中にある何かをくすぐる匂いだ。

 大きく息を吸って吐く。

 腹の中にある巨大な肉塊がエネルギーに転じ、少しずつ体温を上げていく。

 ほんの一瞬、食欲の対象として見つめた少年の瞳を閉じてやり、喰い殺した男の腰から拳銃を取り上げた。

 自分の中からすっかり追い出した筈のボージャに、今更ながら感謝する。

 あのまま進めば二度と人間に戻らなかった。そんな気がした。

 今更だ。

 人を喰わず、殺したからどうだと言うのだ。

 アスロは教会の塀を駆け上った。

 塀には外部から梯子が掛けられており、そこから先ほどの男は侵入したのだろう。

 そうして、今また二人目が塀を登ろうとしていた。

 目を大きく丸めているのは制服からして軍曹である。

 いや、軍曹であった。

 脳天にナイフを生やして梯子から落ちていく以上、作戦中の戦死で階級が上がるかもしれない。

 塀の下で梯子を押さえ、固定しているのは軍服も着ていない下級兵たちだった。

 彼らはアスロが拳銃を向けるとあっさりと逃げ去ってしまった。正規兵や下士官がいないのだから、彼らは戻ってこないだろう。

 アスロは立てかけられた梯子を引き上げると、塀を降りて教会の裏に設けられた採光窓に登り、中に体を滑り込ませた。

 

「ヒィッ!」


 落ちてきたアスロを見て、老婆が悲鳴を上げる。

 血塗れで上半身裸なのだから、暗がりで敵か味方の判別は難しかろう。

 

「落ち着いて。僕はユーリです。武器を取りに来ました」


 暗闇に目が慣れると、教会内部には全部で二十名ほどの非戦闘員が隠れていた。

 その全部が老女と幼児だ。

 

「驚かせるんじゃないよ!」


 老婆が差し出す投擲用の小型爆弾を丁重に断り、アスロはユゴールの木箱を探した。

 ごちゃごちゃとゴミの用に詰め込まれた国旗や軍旗をかき分けると、狩猟用の小銃が一丁出てきた。三連式の弾倉に銃弾を装填し、その感触を手に確認する。

 

「血でも拭けばいいのに」


 一人の老婆がつぶやきながらアスロの背中を拭った。

 みればそれはアスロが掘り出した党旗で、法律に照らせば党への侮辱で死刑以外の罰則はつかない。

 アスロはその態度に笑ってしまった。

 この老婆たちは不自由な旅路を人生に選び、歩き続けた結果こんなにも自由なのだ。

 

「ありがとう」


 アスロは扉をゆっくりと開けて外の覗いた。

 ユゴールたちと、人垣の向こうの男は相変わらず向かい合っていた。

 教会は少しだけ立地が高い分、男の顔が少しだけ見える。

 場にそぐわぬほほえみを称えた男は、堂々と椅子に座って片手に拳銃を構えていた。

 人質にしているジプシーの命を奪おうと思えば指一本動かすだけで終わる。

 他に人影は無く、ほんの一人でハメッドたちと向かい合っているのだろう。

 軍服ではなくて動きやすい服装に身をくるんだ男はそれほど大柄ではない。しっかりと撫でつけられた前髪と、青く剃られた髭。顔に刻まれたシワも含めて穏やかそうな外見である。

 いずれにせよ、気づくより早く頭を吹き飛ばしてやる。

 アスロは扉のわずかな隙間にそっと銃身を差し込む。

 と、衝撃が襲い、一瞬遅れて轟音が鳴った。

 見れば教会の分厚い扉に穴が空いている。

 狙撃だ。

 考えることはことごとく、互いに一緒らしい。

 頬に刺さった木の破片を抜きながら、アスロは舌打ちをした。

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