第50話 滲む思い
うまい。
砂糖水がごくごくと喉を潤していく。
絞ってある果汁が鼻腔をくすぐり、大きなジョッキに注がれた砂糖水は一息にアスロの腹に消えた。
しかし、ニナは持て余すようで半分ほど残してアスロに差し出して来たため、これもアスロが飲み干した。
人心地は着いたものの、全身に鈍痛と固い疲労が広まっている。
アスロは目を細めると大きく息を吸って静かに息を吐いた。
体内で燃え盛る炎を想起することで体調を整える術をアスロは体得していた。ほんの気休めであり、最後の生死を分ける技術だ。
体の隅々まで巡る炎が疲労を少しずつ溶かしていく。同時に上昇する体温が汗を滴らせる。
と、ルドミラが冷たく絞った布でアスロの額を拭いた。
冷たさが心地よく、されるがままに集中していると、冷たさは首筋を撫でて背中へ、そうして腹に入って来た。
「ちょっと、ルドミラ」
傍らに倒れたままのニナが眉間に皺を寄せて口を開いた。
「どこに手を突っ込んでるのよ!」
「野暮なこといいなや。ウチとユーリの間じゃ、どこに手を突っ込もうがお互いに今更や。なぁ、ユーリ」
言ってルドミラが頬を摺り寄せる。
股間をまさぐってくる冷たい手と甘い体臭にさすがに我慢が出来なくなり、アスロは集中をいったん中断させた。
すっと手を伸ばしてルドミラの頭を掴むとその口に自分の唇を重ねる。
目を見開いたルドミラの体がカチンコチンに固まる。
一呼吸おいて顔を離したアスロはポケットに手を突っ込むと、破片を取り出した。
それは戦闘の中で衝撃を受け、破損した髪飾りの一部だった。
「ごめんね。壊れちゃったけど、これを。きちんとした奴は落ち着いたら買いなおすから、今はこれを受け取ってくれないか?」
ルドミラは油の切れた機械のように頷くと、ゆっくり手を差し出した。
「あ……ありがとう」
顔を赤く染めて礼を言うルドミラを、アスロはかわいいと思った。
ルドミラを捕まえ、荒々しく抱きしめる。
ルドミラがなにか言おうとするよりも先に、口で口をふさいだ。
先ほどより強く、長い口づけを終え、離れるとルドミラが口をパクパクと動かしていた。
「ルドミラ」
「は――はい?」
アスロの呼びかけに、大いに動揺したルドミラは声を裏返らせて応えた。
「悪いんだけど、砂糖水をもう一杯くれないか?」
「え、ええと、はい!」
弾けるように飛び上がると、ルドミラは空のジョッキも持たずにテントの外へ走っていった。
場にはアスロとニナと沈黙が残されて、互いの吐息だけが聞こえていた。
「随分と女あしらいが上手になったじゃないの」
ニナの声が静寂を破り、アスロに投げかけられた。
「あしらったつもりなんてないよ。俺はルドミラが好きなんだ」
だから抱きしめたし、口づけをした。そうして、壊れていたけれど髪飾りも渡した。
「ふぅん、そう」
ニナは目を細めてそれきり黙りこんだ。
アスロにはそれがどういう感情の発露なのかわからず、二人のあいだを再び静寂が支配する。
しかし、ルドミラを抱擁した結果としてアスロの体内から疲労は大きく減じていた。
鈍痛も、幸福な気持ちに覆いかぶされて一見しただけではわからない。
なるほど、天にも昇る気持ちというのはこういうことか。先ほどひどく項垂れていたのが嘘のようだ。
アスロは寝床から立ち上がって、桶に掛けてある濡れ手拭いで顔を拭いた。
おそらくハメッドのものだろう。手近なナイフを手に取ってみた。
重い。
なるほど、精神的には疲労を感じていないものの、肉体的には快復に遠い。
普段よりもほんの少し動きが遅れそうだった。わずかだが、もし相手が強者ならその差が命取りである。
「ねえ、ニナ。この揉め事が済んだら俺は第六小隊について外国に渡るけど、ニナはどうする?」
「あら、意外ね。私も当然、連れて行ってくれるんだと思っていたわ。だって、そもそも私を連れだしたのはアスロ、あなたじゃなかった?」
アスロの問いにごろんと横たわったままでニナが答えた。
アスロも最近までは同じ思いだった。これからもずっと一緒に旅を行くのだと。
「女を知って世界が変わったのかしら。口うるさいだけの古い女はもう用済みってことね」
違う!
叫びたかったが、言葉は上手く出なかった。
けっして、ニナを疎んでいるわけではない。むしろ強く親愛の情を持っている。
顔が割れて追跡がかかる自分と居るよりも、ここに残る方が安全かもしれないから、問うたのだ。
しかし、思考は膨張して喉に詰まったように言葉を押しとどめる。
「置いていくならそれでもいいけど、きちんとやることはやっていってね」
ニナは億劫そうに体を起こすと、アスロの前に立った。
ナイフを握るアスロの手を掴み、刃先を自分の胸に突き付ける。
刃先が食込む感触があり、アスロは慌ててナイフを引いた。
「やめてくれよ。そういうことじゃないだろう!」
思わず声が強くなる。
ニナの胸元には小さく血がにじんでいた。
「ユーリ、お待たせ!」
ジョッキを片手に飛び込んできたルドミラが見つめあう二人を見て足を止める。
ただならぬ空気に目を見開かれたルドミラの視線がアスロのナイフとニナの血をなぞり、ゆっくりと細められる。
「ユーリ、刺したんか?」
嫌悪感を混ぜた口調に、先ほど軽かったはずの体が重くなっていくのを感じ、アスロは倒れこんでしまいそうだった。
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